■ 2025-08-21,-22
■ 先日、紀伊国屋に行って、目当ての本がなかったので、気まぐれに買った中西進・「辞世のことば」・中央公論をいちおう読んだ。60人の言葉だった。何かを選ぶことで、何かを表現したいということなのだろうが、今の世では辞世に人の関心は薄いのかもしれない。
■ 在原業平の歌は以前、自分なりに作っていた。
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■ 兄が逝ったとき、思い出した。
あなたの方は、さあどうだか、お気持ちも知られないけれど、さすがにこの旧都奈良では、花の方だけは、昔のままの香で咲き匂っていますね
人の心はなるほど見定めがたいもの、とはいえ、むかしの時間が残るふるさとには、梅の花が咲き、変わらぬ思いがここにあるようになつかしい香りを漂わせている。
人のこころはさあ、わからない揺れ動きあてにならないものだがふるさとの梅はこうして 今も 香っている昔と 少しも 変わらずに
あなたは さあねどんなお心かはわかりませんがこの昔なじみのふるさとそこに咲く花は昔にかわらぬよい匂いで私を迎えてくれますからねえ
人はいさ こゝろもしらす ふるさとは 花そむかしの かにゝほひける 紀貫之はつせにまうづるごとに、宿りける人の家に、ひさしくやどらで、程へて後にいたりければ、かの家のあるじ、かくさだかになんやどりはあると、いひいだして侍りければ、そこにたてりける梅の花を折りてよめる
あなたの気持ちは知りませんが、ふるさとだと思っていますよ私は
昔変わらぬ、この花の香のようにふくよかな匂いのあなたがいるのですから
よおいうわけど、よう来てくれはりましたさあ、のんでおくれやす
逢てみてののちの心にくらぶれば昔はものを思うはざりけり 権中納言淳忠
逢てみてののちの心にくらぶれば昔はものを思うはざりけり さだいえ?
「定家があえてこの一首をとりあげたのは「是は心詞かけたる所なきゆへに入らるる也。これを以此百首のおもむきをも見侍るべきにぞ」(応永抄)ということもにもなり、晩年の定家好みの表れとみられよう。」
「定家好み」という感想が定家を、あるいは、百人一首・百人秀歌を本質的に捉えていると思う
からくれない、は女性の美しさを象徴し、川は、変わらない心を象徴している。
古今和歌集 醍醐天皇
紀友則
紀貫之
凡河内躬恒
壬生忠岑
後撰和歌集拾遺和歌集後拾遺和歌集金葉和歌集 白河院
源俊頼
詞花和歌集 崇徳院
藤原顕輔
千載和歌集 後白河院
藤原俊成
新古今和歌集 後鳥羽院
源通具藤原有家藤原定家藤原家隆参議雅経(飛鳥井雅経)
菅家壬生忠岑凡河内躬恒紀友則・・・紀貫之
(001) 天智天皇御製 後撰集
(002) 持統天皇御製 新古今集
- 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 万葉集
国原は煙たち立つ海原は鴎たち立つ
舒明天皇、岡本宮から田中宮(橿原市)
天智天皇、近江大津宮天武天皇、藤原宮持統天皇、藤原宮文武天皇、飛鳥岡本宮
はつなつの かぜとなりぬと みほとけは おゆびのうれに ほのしらすらし 会津八一
はるすきて なつきにけらし しろたえの ころもほすてふ あまのかくやま
たみびとが ころもあらいて ほしたるか このまにしろく なつはきにけり
ほらごらん なつになったと いうことよ せんたくものが みえるじゃないの
忌部遠祖太玉命掘天香山之五百箇眞坂樹。
ka gu yama ではなく
ka ku yama
柿本人麿山邊赤人僧正遍照在原業平文屋康秀喜撰法師小野小町
(003) 柿本人麿 拾遺集 古今和歌集・仮名序
ながながしきよを ひとりかもねん
軽皇子・文武天皇(天武・持統の孫)の時日並皇子の命の馬並めてみ狩立たしし時は来向ふ 柿本人麻呂
(004) 山邊赤人 新古今集 古今和歌集・仮名序
三吉野乃象山際乃木末尒波幾許毛散和口鳥之聲可聞み吉野の象山のまの木末にはここだも騒く鳥の声かも
若浦尒塩満来者滷乎無美葦邊乎指天多頭鳴渡若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る
(006) 中納言家持 大伴家持 新古今集
宇良宇良尒照流春日尒比婆理安我里情悲毛比登里志於母倍婆うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独りし思へば
うららかな みそらにひばり なきのぼる そのうたかなし ひとりしおもえば 遊水
いにしえの うたよみおれば おもわるる ときはうつれど ひとはかわらず 遊水
あまのかわ ふりさけみれば かささぎの はしとわたして よはふけにける // 遊水
独り寝る・夜ぞ深けにける
(007) 安倍仲丸 古今集
(011) 参議篁 古今集
(005) 猿丸大夫 古今集
(016) 中納言行平 古今集
(017) 在原業平朝臣 古今集 古今和歌集・仮名序 伊勢物語
陸奥の しのふもちすり 誰ゆへに 乱れそめにし 我ならなくにちはやふる 神よも聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
月やあらぬ春はむかしの春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして 在原業平月見れば千ぢにものこそ悲しけれ 我が身一つの秋にあらねど 百人一首
たつたがわ、を漢字で書くと川という文字があるだろう。だからと言って、river のことではない。関取が昔いたんだ。
分かるかなこの辺が日本語的なのだ
・・・その関取がなちはや、という花魁を見初めたんだが、関取なんて嫌だと拒否された
拒否されたのはなぜか、に言及するのは、下世話なコトにもなるのでやめておく
ならば、妹の、かみよ、でもいい、と交渉したんだがなおねさまがいやなものは、わちきもいやでありんす、とちはや、にふられかみよ、もいうことをきかないかみよも、きかず、だそれで、すっかり、世の中が嫌になってな、女断ちをして精進しても、こんなことなら相撲取りなんかもうやめだと故郷に帰ったんだ
父親の豆腐屋を引き継ぎ、くらしていたところ店先に女乞食が来て、なにも食べてないので、せめて、おからでもください、という。どこかで見た顔だが、じっとみると、ちはや、だお、お前は千早だな俺を振った、千早じゃないかお前なんかにおからだって、くれてやるものか・・・からくれないにというわけだ、分かるかなえ、なに、そういうことですかいと、話はつづき、拒否された、ちはや、は、とうとう店先の井戸に身を投げてしまうどぼーん、となへええ、そういうことだったんですか、そういうことだ、わかるかな井戸の水に身を投げた、つまりみずくぐるとは、だな漢字で書くと、水潜る、だ。
と、ここまで話が進み、いい加減だなあ、と思うのは早計、「括り染め」ではないぞ、と、落語家は考えたというところまで読み取らないといけないだいたい、わかったんですがね、最後の、とは、とはなんですかいなに、それぐらいまけとけいやいや、そうはいきません、みそひともじの、ふたもじですから、まけられませんなに、なら、おしえてやろうとは、とはだなあ、・・・なんですか、とは、とはそれぐらい知らなくてどうするとは、とは、千早の本名だ。
二条の后の東宮のみやす所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢ流れたるかたをかかりけるを題によめる
からくれない
絶世の 紅葉うかべて 竜田川 昔も今も 変わることなく
絶世の 眺めなるかな 竜田川 昔も今も 変わることなく 遊水
絶世の美女という言葉は業平の時代にはなかった。「絶世」は言い換えれば「神世も聞かず」だ。歴史上にない美しさ。美しい紅葉だ。その美しい紅葉のようなあなた。
歯の浮くような誉め言葉。
海原は鴎たち立つ・・・池を海に、池辺の水鳥を鴎に見立てたもの
むしぶすまなごやが下に臥せれども妹とし寝ねば果たし寒しも 万葉集巻四・524ふかふかした、カラムシ織の柔らかいふとんを敷いている。それが「むしぶすま」である。
(018) 藤原敏行朝臣 古今集
(013) 陽成院御製 後撰集
(009) 小野小町 古今集 古今和歌集・仮名序
はなのいろは
うつりにけりな
世の中はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに
世の中は 移ろいにけり いたずらに 我関せずと 眺めせしまに 遊水
色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の 花にぞありける // 小野小町
(008) 喜撰法師 古今集 古今和歌集・仮名序
(012) 僧正遍昭 古今集 古今和歌集・仮名序
(010) 蝉丸 後撰集
(014) 河原左大臣 古今集 伊勢物語
■ 陸奥、あるいは奥州藤原氏と関係があるのか
■ 河原左大臣・源融は光源氏のモデルだと言われている。物語だから誰かがモデルであろうとかまわないのだが、モデルになる人物がいた方が作りやすい。■ この歌を取り上げたのは、歌も悪くはないが、「ヒカル」をとりあげたかったのではないだろうか。■ 源融も源光も、天皇の子だが、「みなもと」という姓を与えられ臣下となった。■ 紫式部のすごいと思われるのは、「ヒカル」と名付けたのは物語を書いている自分ではなく、唐の人相見だった、としているところだだ。そして、ほめそやしているが、本当のところ、主人公の性質とか品格を肯定しているわけではない。ヒカルの求める人はどこかに行ったり、死に別れたりで結局のところ主人公は幸せにならず死んでしまう。■ 若い時は、ちやほやされたりするだろうけれど、死を迎えるというか、出家するときだろうけれど、「幻」の章での最後の歌として紫式部は書いている。
- もの思ふと 過ぐる月日も 知らぬまに 年もわが世も 今日や尽きぬる 光源氏
■ この男の品位のなさは、同じ「幻」の歌
- 大方は思い捨ててし世なれどもあふひはなほやつみおかすべき 光源氏
■ この相手は「紫の上」に長く使えてきた女房で、要するに、光源氏はその地位の女性と同等だと、紫式部は語っていることになる。
■ 「ひかる」の心情の下品さを「蛍」の章で「玉鬘」にはっきり言わせている。■ もちろん紫式部本人の感想だ。
■ 「ひかる」自身はそれに気づいてない。分かってない。
■ 人間、若い時もあれば老人にもなる。登場人物の年齢を頭に入れて読まないと間違う。■ ここは、源氏物語について多くを語る場ではないが、紫式部は、架空の人物で虚構の小説ではなく、実のところ、現実であることを「物語」として語っている。■ 定家は、「物語」を作り上げようとしている。
■ 連鎖、連想なのだ。 ちょうどネックレスのように鎖は隣とつながっている。
■ 個々の輪が全体として形をなす。
■ 伊勢物語の最後に業平の歌がある。
- つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふ今日とは 思はざりけり 業平
- その時が いつか来るとは 知りながら 昨日今日だと 思わざりけり 遊水
■ 定家は、源氏物語の主人公にも、伊勢物語の主人公にもなれないのだが、■ 百人一首・百人秀歌をまとめ上げて満足して死んだのではないかと思う。
(015) 光孝天皇御製 古今集
■ この「君」はもちろん定家にとっての君を想像しなければならない。
■ 何かを選択する時、選択する理由があるはずだ。ただ好きだから、とか、いいと思うから、とか、漠然としたコトもあるかもしれない。もう少し、色々な理由があるだろう。逆に嫌いだから、ということもあるだろうし、貶めることもあるかもしれない。とにかく一人につき一首しか取り上げないのだから、その理由を考えたくなる。■ 「貶めることもある」のか、そんなことない、と思うかもしれない。「ある」と思う。ではどの歌なのか。
■ 大納言公任の歌は、百人一首と百人秀歌では違う。なぜ違うのか。それはその項に書こうと思うが、理由があるはずだ。
■ 藤原定家は、いわゆる「いい人」だとも言えないと思う。かなり自意識の強い、いわば変人ではないか、それは当時として、彼がどのような待遇であったかによると思う。今の世では歌人の評価は低いわけでもないだろうが、平安末期から鎌倉時代、歌人は何の役にたったのか、と思わざるを得ない。
■ 鎖は、前と後、とのつながりでできている。
連鎖・連想 、連想・連鎖
■ 連鎖・連想は前後だけで、必ずしも百首すべてが同じ選択基準で選ばれなくてもいいが、少なくとも、前後の歌は、何らかの関係性を持っている、と考えていい。
(019) 伊勢 新古今集
(020) 元良親王 後撰集
(028) 源宗于朝臣 古今集
(021) 素性法師 古今集
(024) 菅家・菅原道真 古今集
■ 漢詩から和歌の時代への象徴は古今集だった。■ 古今集の編者の前に菅原道真を配置するのは適切だったと思う。
(030) 壬生忠岑 古今集 古今和歌集・編者
(029) 凡河内躬恒 古今集 古今和歌集・編者
(033) 紀友則 古今集 古今和歌集・編者
■ 伊勢物語にふたつの桜の歌がある。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき
■ これらの理屈っぽい歌より、こっちの方がいい、と定家は思って取り上げたのだろう。
■ 業平の歌ばかり取り上げるのも、ナンだし。
久方の久方ぶりの久しぶりの
■ 桜が咲くころは、雨が降ったり風が吹いたりして、必ずしも、いつもいい日ばかりではない。今日は、久しぶりの、のどかな春だから、散ったりせずに楽しませてほしいなぁ
■ メモひなざかるあまざかる
離る(かる)空間的に遠くなる。時間的に遠くなる。
ふりさけ振り向く振り返る「さけ」は動詞「さく(放く・離く)」の連用形。
(022) 文屋康秀 古今集 古今和歌集 仮名序
(035) 紀貫之 古今集 古今和歌集・編者
■ このように、自らの歌を評価するかのようにもとれる貫之の歌を選んでいる。人はいさ心も知らず故郷は花そ昔の香に匂いける
白川静・文字遊心・平凡社、P.486
[万葉]には「おもふ」が七百三十数例あり、半分が仮名、あとは「念ふ」が五「思ふ」が四の割である。他に、意・憶・想が一、二例、[記][紀]には惟・懐・欲・以為などもあり、これは散文的語彙とされたのであろう。
祈れどもあはざる恋といえる心をよめる
憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣
玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ることの弱りもぞする 式子内親王君が代にあはずは何を玉の緒の長くとまでは惜しまれじ身を 定家朝臣
橘のにほふあたりのうたたねは夢もむかしのそでの香ぞする 皇太后宮大夫俊成女かへり来ぬ昔を今とおもひ寝の夢の枕に匂うふたちばな 式子内親王
忘れてはうち嘆かるるゆうべかなわれのみ知りて過ぐる月日を 式子内親王わが恋は知る人もなしせく床のなみだもらすな黄楊の小まくら 式子内親王
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家
ひとはいさ こころはしらず われはただ みそひともじに こころくだいて 遊水人はいさ心も知らず故郷は花ぞ昔の香ににほひける 紀貫之
富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いとしろう降れり。・・・
ふじの山をみれば、さつきのつごもりに、ゆきいとしろうふれり。
なほゆきゆきて武蔵の国と下つ総の国との中に、いとおほきなる河あり。
2009年4月22日、7:47:44
船橋・三番瀬
「百人一首の解釈ということ」
みずくくるとは
水潜るとは
からくれないにみずくくるとは
たつたがわからくれないにみずくくるとは
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで 平兼盛
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見
歌話的興味にひかれたと思うのである。有名な逸話があるところから二人を並べてだしたのだろう。
こいすてふわがなはまだきたちにけりひとしれずこそ思ひ初めしか
恋をした早くも 私の名前が噂になっている人に知られないように思い始めた ばかりなのに
安東の本は「百人一首」という題だが、「百人秀歌」という題で語った方がよかったと思われる。
絶え果てぬ玉の緒
おぼつかなそれかあらぬか明暗のそらおぼれする朝顔の花 紫式部 塚本邦雄選めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな 紫式部 藤原定家選年暮れてわがよふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな 紫式部 橋本遊水選
秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ 和泉式部
しろたへの袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く 藤原定家
若き日は見えざりしこの風のいろ身にしむ色の風の秋なる 小島かおり
母逝きて はや幾年か 忘れども 身にしむ色の 秋風ぞ吹く 橋本遊水
あらざらむこの世の外の思ひ出に今一度の逢ふこともがな 和泉式部 藤原定家選秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ 和泉式部 塚本邦雄選黒髪のみだれもしらずうち臥ふせばまづかきやりし人ぞ恋しき 和泉式部 橋本遊水選
こちふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな