■ 2025-08-09
■ 田辺聖子は、こんなことを書いている。
「久方の」は、光や日、空、天、などにかかる枕ことばである。それはいい。学校の国語の時間でみな習うことである。しかし、「しづこころなく 花の散るらむ」の「らむ」は若いときにはわからない。「らむ」は本来推量の助動詞だから、「静心」なく花が散るだろう、とくると、ぜひともこれはその上に「など」(なぜ)という言葉が入らないと理屈に合わない。私が学生の頃にはこの「なぜ」抜きの友則の歌が、奥歯にものが挟まったように気にさわるのであった。「久方の 光のどけき 春の日に などしづこころなく 花の散るらむ」としたら意味はチャンとするのだが、と考えていた。
■ 田辺聖子の言うように、「国語の時間でみな習う」ことだった。
■ 昔、兄が言っていた。「学校で習うことなんて、噓ばっかしだ」と、まあそういうことだ。
■ 問題は「枕ことば」にある。
■ だいたい、枕ことば、ってなに、と田辺聖子は思わなかった。
■ だって、先生が教えてくれたことだから。
■ しかし、若いころの田辺聖子の疑問に間違いはない。
■ 和歌は「論理的」なのだ。
■ というか、昔の人は自分が思っていることが相手に伝わるように表現した。
■ ところが、分類上とか、いい加減な統計上という感じで「枕ことば」という概念を作り上げたのだ。
■ 誰が最初に「久方の」と使ったのか。
■ 最初に使った人は、枕詞として使ったとは考えられない、と思わなかったのか。
■ などと、人と議論はしてもしょうがないかもしれない。
■ だって、学校の国語の時間に習ったんだもの、ということだ。
- など しづこころなく 花の散るらむ
■ としなくても、いい。「など」がつくと57577に収まらない。
■ 枕言葉の部分に注目すればよかったのに、と思う。
■ たとえば、
ひさしぶりひかりのどかなはるなのにしずごころなくはなはちるのか
■ この歌については何度か書いた。
1966年 逃亡地帯1967年 裸足で散歩1981年 黄昏
1984年 The Dollmaker
【御年83歳】大女優、ジェーン・フォンダの人生をよりよくするためのアドバイス|ハーパーズ バザー(Harper's BAZAAR)公式