百人一首に遊ぶ・後半、人々のつながりの基本は言葉である。追記


■ 手元には上巻しかないが、このリンクが役にたちそうだ。
源氏物語和歌 (genji.co.jp) サイデンステッカーさんの英訳

■ 2024-01-25
■ 2023-12-12、追記
■ 2023-09-19、追記
■ 2023-07-21、22、24、追記
■ 古今和歌集・905年〜914完成、仮名序に、・・・
■ やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける
■ とあるが、・・・
■ 菅原道真が遣唐使の中止を提言し、このあと大和歌が花開いた。
■ このような言い方には、違和感がある。
■ 万葉集は、例えば、吹田市・千里南公園・ツツドリの丘にある碑にある歌

茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流  
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる

■ 表記が漢字ばかりであっても、内容的には「唐歌」ではない。
■ 長い大和ことばの歴史があり、意味のある言葉、即ち、単語と、文章表現としての「てにをは」があり、送り仮名がある。
■ 漢字の意味の、理解能力が優れている人々の、ことばの文化があった。
■ ことばとは、ひとつは、相手を知る能力のことだ。
■ その相手に自分をも含めて客観視することができれば、表現となる。

○    ○

■ ついでながら、
■ かなで表記された和歌の心を漢詩に置き換えることができるのか。
■ あるいは、漢字表記故漢字文化圏の人が分かると言えるのか。
■ 文字とことばの違いがある。
■ 昨今、多くの日本語が話せる外人が多く、その意味は分からない時点でも美しいと感じる人も多いようだ。
■ 子供の頃アニメを見て、日本語や日本にあこがれをもった人も多いことを、来日した人々へのインタビュー動画などでも知るようになった。
■ ただ話すだけでなく、読み書きもできるのか、と思う。

○    ○

■ さて、小倉百人一首とは何か、ここいらで、もう一度、この問いを発しておこう。
■ 小倉百人一首の選者は藤原定家であった。
■ と、するならば、当然、自分の歌が最高の歌だとすることを確認し、世に示すものであったはずだ。
■ 故に、百人一首は最後から読むのがよいと思われる。
■ 100番の歌は、百敷やふるき軒端のしのぶにもなをあまりあるむかし成けり 順徳院、だった。これは「百敷」の「百」があるから選んだ、と思われる。他に「百」とある歌を見いだせなかったのかもしれないが、この歌を選ぶことにより、順徳院の父である後鳥羽院を引き出すためのものでもあったろう。
■ このように考えると、藤原定家の気持ちがよくわかる。
■ 100首選んだことには、もちろん、彼にとって、選ぶことの意味や意義があってのことだ。
■ 私としては「百敷や」を「百歳や」として読みたいと思う。しかし、まあ、どうでもいいし、「百敷や」でもかまわない。
■ 私は定家ではないのだから、あえて取り上げる必要はない。
■ 後鳥羽院の歌と定家の歌を比較すると、罪人として流された、後鳥羽院の歌より定家の歌の方が明るく、積極的に歌いあげている。
■ しかも、女ごころの歌として、自分に思いを寄せている、と詠っているところが、まあ、定家という男の人間性を示しているともいえる。
■ ではその相手の女性とは誰か、ということだろうが、当然、式子内親王とするのが妥当だろう。史実として、本当かどうかは、時代が1000年も過ぎた今ではどうでもいい。
■ 百人一首に出てくる女性として、身分的に、一番は持統天皇であり、その次が式子内親王であり、他にはいないから、定家から見ると相手としてもちろん不足はなく、当時としては、不相応な相手だったといえる。このように考えたとき、小倉百人一首を選んだ意味がわかり、その物語性が面白く感じられるのだ。
■ 百人一首には恋の歌は数多くある。
■ 柿本人麻呂の歌は他にもよいのがあるが、3番目の歌として、ながながし夜をひとりかもねん、とすることで定家の歌を浮かび上がらせる伏線的効果がある。
■ いろいろと、恋の歌を選びあげて読む者の関心をその方に向けてゆく、そのあたりがいかにもうまい、と言ってもいいだろう。
■ たとえ、以上に述べたような定家の意図が分からなくても、どの歌もそれなりの歌なので、長く読み継がれていくことは確かだろうし、現実的にカルタ競技にもなり、親しまれてきたので、選者の藤原定家という名前は日本の「ことのは」の歴史に刻み込まれたのだ。
■ 世界に多くの国があり、多くの人が生きてきた。
■ 人と人のつながりの基本は言葉である。

○    ○

■ 地球上に日本語を理解できる人がどの程度いるかは知らないが、文字として、音声として記憶され残っていて、インターネットが普及している今、どの国にいても、いつでも誰でもが読むことができる環境にあるし、聞くこともできる。
■ 更には自らも詠むことができるごく簡単な詩形でもあり、SNSなどで、発表は即時に容易に可能なので、小倉・百人一首は国境を越えた代表的な大きな世界的な文化といえる。
■ これから多くの人が歌を詠む一つの指針とすることができるだろう。
■ 世界中の人々が、小倉百人一首を日本の文化とみるか、
■ それとも自らの文化として意識するかどうかは知らない。しかし、日本では他国の書籍も翻訳され読まれている。それが異国の文化としてばかりではなく、親しみを持って読まれ、心に残るものも多いと思われる。
■ それは、現代や近代ばかりのことではなく、いにしえの時代からであった。
■ 当面は異文化としての興味であったとしても、自らの歌として接することで、広い心をもつことができるだろう。
■ 繰り返すが、世界には多くの国があり、これからも多くの人が生きてゆく。
■ 人々のつながりの基本は言葉である。
  • 57577指折り数え言の葉に今の心を詠い残さん  遊水
○    ○

■ 百人一首の51番に定家は藤原実方の歌を上げている。
■ 実方はある時、藤原行成のかぶり物を打ち落とした。その様子を見ていた一条天皇より「歌枕見て参れ」と陸奥の国に左遷された、とのこと。このあたりの逸話は色々解説本にも書かれていることだろう。
■ 当時、陸奥の国の守りが軍事的にも重要だったということもわかる。
■ 後日、西行が奥州に行った際、実方の墓を訪ね
朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて 彼の野すすき形見ぞとみる  西行
■ と、歌枕になったということだ。 
■ さらに、この歌枕ゆえに松尾芭蕉は、・・・
檜皮の宿を離れて、あさか山有。道よりちかし。此のあたり沼多し。かつみ刈る比もややちかふなれば、「いづれの草を花かつみとは云ぞ」と人々に尋侍れども、更に知る人なし。沼を尋ね、人にとひ、「かつみかつみ」と、尋ねありきて、日は山の端にかかりぬ。
■ と、奥の細道に書いている。 
■ こんなことを思い出しながら読むのもよい。
■ ついでながら、西行はこの後
とりわきて心も凍みて冴えぞ渡る 衣河見に来る今日しも  西行
■ と歴史に思いをはせている。
■ まあ、そんな実方の歌は、かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじなもゆる思ひを、だった。
かくとだに
えやは いぶきの
さし も草
さしも しらじな
もゆる思ひを
■ 技巧的な歌だ。この歌がいいかどうかは別にして、「いぶき」とか「さしも草」について調べたり、藤原行成がどんな人で、能書家・三跡とはどんな文字を書いたのかなど、道草するのも遊びなのだ。
■ また、歌枕にはどんなものがあるか、Wiki で見たりするのだが、
有馬山って、なんで、ないんかいな、
立派な歌枕ちゃうんか、
■ 有馬稲子など二度も使われた宝塚女優の名やんか。百人一首知らんのか、・・・Wiki も完璧とはいえん。
■ まあ、いい。そのうち充実してゆくだろう。

○    ○

■ 横道にそれると言えば、・・・
■ 丸谷才一は新々百人一首の三番目に、二条后の「・・・うぐいすの氷れる泪いまやとくらむ」をとりあげ、「なみだ」について色々25頁も書いている。その中で、53頁から55頁にかけて、
・・・、言ふまでもなく「奥の細道」の「矢立のはじめ」だが、芭蕉のこの句についての古来の解釈はみな私を納得させなかった。・・・
■ などとあるが、 彼の解釈を読むと、丸谷才一は奥の細道をどれほど読んだのか、と言いたくもなり、私を納得させなかった。
■ 奥の細道は旅から帰って5年だったか、の後に書かれている。もちろん、わざわざ「矢立の初め」などと書いていることからも分かるように、矢立の初めの句ではなく、旅費を出してくれた濁子とパトロンの杉風への挨拶の句である。この義理立ての句を思いついた芭蕉のあざとさに恐れ入るのだ。芭蕉を見送ったのは、・・・
  • 素堂、原安適、濁子、杉風
■ この4人であり、友の二人ではなく、弟子の魚屋の杉風と濁子が詠みこまれている。
■ だいたい、水の中の魚の泪など、だれが考えても非常識で、今の世の人は芭蕉が俳聖などとの先入観があるから、人の涙であることを意識外に押しやっているのだ。

濁子・鳥金右衛門、・・・鳥啼き
杉風・鯉屋市兵衛、・・・魚の目は泪

■ 少なくとも、この二人はこの句を読んで、自分たちのことだと、すぐわかったはずで、師匠である芭蕉に、しかも、「矢立のはじめ」に取り上げられているのだから、その後も尊敬し、資金援助を惜しまなかっただろう。
■ こんなふうに「あそび」だから横道はそれるのがオモシロイのだ。
■ まあ、いい。
■ ここでは後鳥羽院をとりあげることにする。
  • 051 
  • 人もをし人も恨めしあぢきなくよをおもふゆへに物思ふ身は  後鳥羽院
  • 鎌倉と戦し破れ流刑地の隠岐の島なる天の高さよ  遊水
  • あのころの あいとねたみと うらぎりの よををおもうゆえ ものおもうみは  遊水

■ 藤原定家は、百人一首を選んだときにも、まだ、後鳥羽院を意識していたと思われる。
■ 今の世に百人一首を読むとき、もはや彼らの関係を忖度することはない。
■ すでに、藤原定家の世界になっていたのだ。
■ このように考えたとき、定家はみずからの歌をもう少し落ち着いた調子にしてもよかったかと思う。
■ 99番と100番にあげた。
  • 052 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな  藤原道信

  • 053 歎きつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る 右大将道綱母
  • 054 忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな 儀同三司母
○    ○

■ 小倉・百人一首では、55は、番滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ  藤原公任、だけれど、どうということもないので、
■ 藤原公任が編集したという和漢朗詠集をざっと見た。
■ 漢詩の方は、あまりなじみがない。しょうがないので10番目の歌を取り上げた。
  • 055 
  • 先遣和風報消息 続教啼鳥説来由
  • やわらかな 風にきづいた そのあとに 春が来たぞと 鶯の声  遊水


■ 簡単そうだからだ。
■ 次にあげる白居易の詩の3、4句目だ。何か理屈っぽく面白くもないのだが、
■ 短歌形式にできないこともないか、とやってみた。↑
■ 白楽天の場合、鳥の種は分からないが、どんな鳥がなくのだろうか。
■ 日本の場合、春啼く鳥の代表はウグイスだ。

  春生   白居易
春生何處闇周遊
海角天涯遍始休
先遣和風報消息
續教啼鳥説來由
 
展張草色長河畔
點綴花房小樹頭
若到故園應覓我
爲傳淪落在江州

■ 他の漢詩についても短歌になおせるものなら取り上げてみるのもいいかもしれない。
■ 適当にやってみると、少しずつ分かってきて、親しみがでてくるかもしれない。
  • 056 和泉式部は順番を変えて、後に取り上げる。
  • 057 紫式部は010に取り上げた。
■ 紫式部、となると、源氏物語だが、あまりにも大き過ぎて困る。
■ 多くの人がかかわり、研究もしているし、現代語訳もいくつかある。
■ 短歌との関係で言えば、歌人である与謝野晶子・全訳源氏物語を上げるのがよいように思う。
■ それぞれの話の前に晶子の歌が添えられている。
■ 例えば、「朝顔」では
  • みずからは あるかなきかの あさがほと 言いなす人の 忘られぬかな  昌子
■ 源氏物語にはたくさんの和歌がある。
■ 折口信夫は紫式部の作歌能力は、哀れなほど低い、といったそうだが、・・・
■ 例えば、最初の桐壺のところで、・・・
  • 限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり
■ とある。
■ 物語としては効果があるのではないかと思う。
■ 散文ばかりでなく、和歌にすると、印象が引き締められるのではないだろうか。
  • ■ 極端に言えば、
  • 源氏物語は、ただ和歌の部分を取り上げ、与謝野晶子の歌を並び置き、それに対して、自分なりに歌を付加するのがいいのではないかと思われる。2024-01-25
■ 平家物語でも、和歌はけっこうある。
■ 百人一首との関係でいえば、平家物語・葵前に、・・・
  • 忍れど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで
■ この歌が出てくる場面もある。

○    ○
  • 058 ありま山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする  大弐三位
  • 060 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立  小式部内侍
■ 紫式部と和泉式部の娘だが、どちらにも地名が詠まれている。
■ 地名を詠みこむことは、記録として、なるほど、と思う。
■ 小式部内侍が和泉式部の娘ならば、和泉式部は天橋立の方にいた、という歴史的事実が読み取れる。
■ 当時、軍事的に、北の陸奥・南の太宰府・そして敦賀湾、等、重要視されていた、ということだろう。
■ 大伴家持などそのいずれにも行っている。
  • 056 黒髪のみだれもしらずうち臥ふせば まづかきやりし人ぞ恋しき  和泉式部
■ 娘の方は、からかわれて、むきになって対応している歌だが、母のこの歌は、成熟した女性の、というか、相手にたいする思いを率直に、ひたむきに、感情豊かに愛されている喜びを詠んでいる。
■ 定家の選んだ歌は、「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびのあふこともがな」だ。どちらも、自分の思いをよく表現しているが、それがかえって、鬱陶しいと相手に疎まれる要因になったのかもしれない。
■ この人の人生が分かるような気がする。
■ 白洲正子・私の百人一首では「和泉式部は色好みで、奔放な女性として知られているが、このようにしっとりした歌をみると、一概にそういって片づけられないものがある」とある。
■ 通い婚という言葉がある。多情奔放と言われたとしても、彼女から積極的に迫ったとは考えにくい。「和泉式部日記」は読んだことはないが、どうなのか、・・・
■ 奈良、平安時代は法華経が広まっていて、和泉式部は道長から誠心院を賜り、尼となってこの寺に住んだ、と。

  法華経・巻第三・化城喩品第七
衆生常苦悩、盲冥無導師
不識苦尽道、不知求解脱
長夜益悪趣、減損諸天衆
従冥入於冥、永不聞仏名

暗きより暗き道へと入りぬべき 
はるかに照らせ山のはの月  和泉式部

■  和泉式部は知的で、紫式部が嫉妬し貶す対象であったようだが、それが逆に、和泉式部の歌のよさを顕している。自分より優れていると感じるからこそ、紫式部は貶したのだ。
  • 059 やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな  赤染衛門
○    ○
  • 061 
  • 原爆忌 そのひばかりは めぐりきて いきてかえらぬ ひとぞかなしき  遊水
  • わかれにしその日ばかりはめぐりきていきもかへらぬ人ぞ恋しき  伊勢大輔


■ 小倉百人一首の伊勢大輔の歌は、
いにしへの
奈良の都の
八重桜
今日九重に
にほひぬるかな
■ このころ、八重桜が多かったのか、ちょっと気になる。
  • 062 夜をこめてとりのそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ  清少納言
■ 孟嘗君が秦から逃げ出す途中、夜は閉じ一番鶏で開くという規則の函谷関で、鶏の鳴き真似のうまい者がいたので、本物の鶏も鳴きだし、開かせたという話が日本にも伝わっていた、という歴史を証明する歌なので、他にもいい歌があるかもしれないが、やはりこれか。
■ 鶏鳴狗盗 
・・・ 
夜半至函谷関。
関法、鶏鳴方出客。恐秦王後悔追之。
客有能為鶏鳴者。
鶏尽鳴。
遂発伝。

■ ついでながら、
■ 水滸伝では、時遷という男が、石秀・拚命三郎と楊雄・病関索らとの逃避行の途中、時を告げる鳥を盗んで食ったため、争いの原因になった。時遷は水滸伝の108人中107番目に位置付けられているが、盗みなどの特技が何度か役にも立っている。
■ ともかく、時計のない時代、鶏も役に立っていたということだ。

063 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな  藤原道雅
064 朝ぼらけ宇治の川霧絶え絶えにあらはれわたる瀬々の網代木  藤原定頼
066 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし  行尊

  • 065 恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ名こそ惜しけれ  相模
  • 067 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ  周防内侍


■ 「名こそ惜しけれ」二首、

恋にくちなむ名こそ惜しけれ
かひなく立たむ名こそ惜しけれ

■ どちらも、いい。
■ たしか、山口百恵が歌う歌、・・・プレイバックpart2。作詞:阿木燿子

気分次第で抱くだけ抱いて
女はいつも待ってるなんて
・・・ 
馬鹿にしないでよ・・・ 

■ 阿木燿子は「微笑み返し」の男あしらいなど、面白い。
  • 068 心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜はの月かな  三条院
  • 069 あらし吹くみむろの山のもみぢ葉は竜田の川のにしきなりけり  能因 ▼


■ 能因法師は色々旅をし、歌枕がある。後の人がその地をたどり歩くこともあった。
  1. 能因法師
  2. 西行
  3. 芭蕉
■ 馬場あき子の本では、「二十六歳で出家し、やがて摂津の歌枕昆陽池近くに隠棲した」とあるので、何か、野鳥撮影をしている者としては親近感も沸く。関西の探鳥地のひとつだからだ。

摂津・昆陽池、itamidemitaizenpage.pdf

■ 以前、昆陽池は、朝日放送ラジオだったかな「おはようパーソナリティ道上洋三です」でもなじみの場所だ。この人は阪神タイガースのファンで、何かあると「六甲おろし」を歌っていた。
■ この「六甲おろし」で「おろし」が頭に刻みこまれた。
■ 白洲正子著「私の百人一首」を見ると「二十六歳の時に出家し、摂津の古曽部に住んでいたので「古曽部入道」ともいわれた。」とある。

摂津・古曽部 能因 - Wikipedia
津の国の古曾部といふ所にてよめる
わがやどの梢の夏になるときは生駒の山ぞ見えずなりぬる(後拾遺167)

■ こんな歌も作っていて、「生駒」という地名が古いことがわかる。
■ 馬場あき子は 

山里の春の夕暮きてみれば入相の鐘に花ぞ散りける(新古116)

■ こんな歌も取り上げていた。
■ 「春」「花」、「夕暮」「入相」俳句的には季重なりだ。
■ そこで一句、
  • 入相の 鐘に花散る 家路かな  遊水
■ 即席だ。
■ さて、百人一首には、「あらし」という言葉は3首に出てくる。

22番、文屋康秀の「・・・むべ山風を荒しといふらむ」
69番、能因法師の「あらしふく・・・」
96番、入道前太政大臣「「嵐の庭の雪ならで」

■ どの歌の「あらし」も台風のような暴風雨ではない。
■ 「嵐」という言葉は、少し強い、桜の花を散らしたり、紅葉の葉を散らしたりする程度だ。
■ 22番の歌では「嵐」の意味について述べた。
-------------------------------------------------------------------------
ここにも書いた。
おろし
あらし
■ ・・・
■ そして、「台風」ということば、この「台」とはなんなのかね、と思う。
■ また、そのうち考えよう。
■ 丸谷才一・新々百人一首では、
  • さらしなや 姨捨山に旅寝して今宵の月をむかし見しかな  能因
■ この歌を上げて、歌枕、姨捨山と月、関連で9頁ほど書いている。
■ どの歌を取り上げるかは選者による。
■ 定家の選んだ「龍田の川の錦なりけり」という視覚的な表現は、まあ、無内容な感じではあるが、百首の中での装飾的効果はある。

龍田川もみぢ葉ながる神奈備の三室の山にしぐれ降るらし  読人しらず、古今
あらし吹くみむろの山のもみぢ葉は竜田の川のにしきなりけり  能因

■ この二つの歌は
  1. 龍田川
  2. もみじ葉
  3. 三室の山
■ これらを題材にしている。
■ このように、他のもってまわった理屈っぽい歌と比較すると、すっきりとした感じだ。
■ だいたい、三室山のすぐ横を竜田川は流れているだ。
■ 「しぐれ降るらし」などと言わずとも、どちらもすぐ目の前にあるのだ。
  • 070 
  • みやこまで さんりのみちの ゆきかえり いずこもおなじ あきのゆうぐれ  遊水 
  • 寂しさにやどを立ちいでてながむればいづくも同じ秋の夕暮  良暹


■ この良暹の歌は、おそらく誰でも、ふんふん分かる分かる、ということかもしれないが、誰もが深くは考えてなく、誰も分かってないような気がする。
■ 何時に「やど」を出て、何時に「やど」に帰ってきたのかを考えるとよい。
■ ・・・
  • ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里 水の清滝 夜の明けやすき  与謝野晶子

071 夕されば門田の稲葉おとづれてあしのまろ屋に秋風ぞ吹く  源経信
072 音に聞くたかしの浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ 祐子内親王家紀伊 ▼
073 高砂のをのへの桜咲きにけりと山のかすみ立たずもあらなむ  大江匡房 ▼
  • 074 卯の花の身の白髪とも見ゆるかな賤が垣根もとしよりにけり    源俊頼


■ 百人一首では「うかりける人を初瀬の山おろし激しかれとは祈らぬものを」だけれど。
■ 歌自体は面白くはないが、作者の名前「俊頼」「を詠みこんだ歌「としよりにけり」の方を取り上げておこう。
■ 掛詞とか、ことば遊びは面白い。
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
■ この業平の「かきつばた」はよく知られている。
■ 言葉遊びをするだけの時間やゆとりがあったということか、・・・

075 ちぎりおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり  藤原基俊
076 わたの原漕ぎいでて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波  藤原忠通 ▼
077 瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ  崇徳院
078 淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関もり  源兼昌
079 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月の影のさやけさ  藤原顕輔 ▼
080 長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ  待賢門院堀川
  • 081 ほととぎす鳴きつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる  藤原実定
■ ホトトギスは営巣地ではひっきりなしに囀っている。
■ 京の都は春の渡りの通過点だったということか。
  • ほととぎす平安城を筋違に  与謝蕪村
082 思ひわびさても命はあるものをうきにたへぬは涙なりけり  道因

084 長らへばまたこの頃やしのばれむうしと見し世ぞ今は恋しき  藤原清輔
085 夜もすがらもの思ふ頃は明けやらでねやのひまさへつれなかりけり  俊恵
  • 086 歎けとて月やはものを思はするかこち顔なるわか涙かな  西行


■ 若い時から死ぬまで、どの時点の歌を取り上げ、何を評価するかは人それぞれだ。
■ 表歌、即ち、代表歌は作者と第三者では評価が違う。
■ 和歌の世界では「歌合」があった。
■ 「自歌合」の場合は、どちらも自作なのだから、どちらかを選ぶということではない。
■ 一首では言い切れず、二首にして、相互に補い説明しているのだ。
  • 知らざりき雲居のよそに見し月のかげを袂に宿すべしとは  西行
  • 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
■ 藤原俊成は、西行から判定を依頼されてこれらについて述べた。
■ 藤原定家は、父・俊成の評を追認する形で、「嘆けとて」の歌を百人一首にとった。
■ 西行最晩年のことだったので、「嘆けとて」が彼の代表作だといえるかもしれない。
■ 他にいい歌もあるのにと言う人も多いだろうし、私自身もそう思う。
■ しかし、彼の側に立てばやはりこれが彼が一番残したかった歌だろう。
■ 西行が若いころ、即ち、佐藤義清が「西行物語絵巻」に娘を蹴落とす場面がある。
■ なぜ蹴落としたのか、
  • あなたには 妻も子供も いるでしょう これでお終い 一度だけだよ
■ などと、言われたということのようだ。
■ その腹いせだ。
■ その相手はだれか、身分違いの人だった。

西行・のりきよ と 待賢門院璋子・たまこ
定家・さだいえ と 式子内親王・のりこ

■ 定家が取り上げたのは、自分と同類であることを意識してい、しかも、自分が勝者で、西行は敗者であったからだともいえそうだ。
■ ついでながら、・・・
■ 橘曙覧は「心なき身にもあわれと泣きすがる児には涙のかからざりきや」などと作っている。
心なき身にもあはれは知られけり
鴫たつ沢の秋の夕暮
■ この歌と合わせた歌だ。
■ 小林秀雄は「西行」の最初にこの歌を取り上げている。
■ 心なき身、とはこの歌では「あはれ」を感じることのないような境遇の者になる。
■ 小林は、心なき、という言葉自体に関して何も言ってない。
■ ただ、
俊成の眼には、下二句の姿が鮮やかに映ったのは当然であらうが
歌の心臓の在りかは、上三句にあるのが感じられるのであり、其処に作者の疼きが隠れている
■ としている。
■ 西行が自分自身のことを、心なき身、ということは
■ 逆に言えば、いかにも、俺はあわれを知っている、と強調する感じで嫌味だ。
心なき身にもあはれは知られけり
■ 「其処に作者の疼きが隠れている」などと小林秀雄はよく出鱈目を言ったものだ。
■ 自分自身を詠みこんでいる場合、醒めた感じで見ると、案外、おかしなことがある。
■ よく知られた、・・・
  • 040 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで 平兼盛
■ これって、本気で隠そうとしていたのかどうか、分からないようにおもう。
■ 「しのぶれど」と口では言いながら、なんとなく人に分かるように「恋」を演出していたのではないかと勘繰ることもできる。
交わすまなざし他人の証拠
そ知らぬふりするできた奴
■ こんな都都逸、うまく作るものだ。感心する。
■ おもいだしたが、・・・
■ 学生時代、夏休みのクラブ合宿で、いかにも、それと分かる一組がヤナ感じだった。

087 むらさめの露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮  寂蓮
088 なには江のあしのかり寝のひとよゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき  皇嘉門院別当
089 玉の緒よ絶えなば絶えね・・・ 式子内親王
■ 式子内親王の歌は 099 にあげるので、ここには他の人の歌を取り上げたい。
■ ただ、「玉」を命、としている解説が定説化しているようだが、「命を懸けた恋だもの」という唄がいかにも俗っぽいのと同様で、元々の玉とした方が美しい。万葉集にも真珠を玉として歌った歌がいくつもある。そして、真珠を紐に通して腕にする歌もある。玉は、相手と自分で、関係が切れたとしても、隠し通そうと思い悩むより、毎日会えるわけでもないのだから、玉と玉をつないだ緒が切れて離ればなれになるように、縁が切れた方がかえってすっきりする、と、現実にあったかどうかは別にして、彼からもらった真珠の腕輪をまさぐりながら思った、いう感じとしてとらえたい。

玉の緒よ
絶えなば絶えね
長らへば
忍ぶることの
弱りもぞする

■ さて、替わる歌としては何がいいだろう。
■ 百人一首には恋の歌が多い。
■ ありすぎる感じだ。

090 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色は変らず  殷富門院大輔 ▼
091 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろにころもかた敷きひとりかも寝む  藤原良経
092 わが袖は潮ひに見えぬ沖の石の人こそ知らね乾くまもなし  二条院讃岐 ▼

○    ○

■ 小倉百人一首の93番は、世の中は常にもがもななぎさ漕ぐあまのを舟の綱手かなしも 源実朝、だ。
■ 実朝を取り上げたということは、その親の頼朝についても当然知っていたことだろうし、平家物語についても定家はよく知っていた。ただ政治的問題に関心がなかったということかもしれない。だが、頼朝と慈円ということで、並べておくのがよいかと思う。
  • 093 陸奥のいはでしのぶはえぞしらぬふみつくしてよ壺の石ぶみ 源頼朝
  • 095 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢をみるかな 慈円

■ おほけなくうき世の民におほふかなわが立つそまに墨染の袖 慈円、この歌はなんとなく好きになれないので、「夢のうちにも夢をみるかな」にした。
  • 094 み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒くころも打つなり  源雅経
■ いい歌だ。
  • 096 
  • 嵐ふく庭の桜のゆきならでふりゆくものは我が身なりけり  遊水
  • 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり  西園寺公経

■ 「桜吹雪」が分かるように読んだ方がいい。
■  しかし、まあ、いずれにしても、どうということはない。
  • 097 
  • 夏されば 外の遊びも あきの風 さびしさ寄せる 人もなき浜   遊水
  • 夕されば野辺の秋風身にしみて鶉なくなり深草の里  藤原俊成
  • 鶉鳴く 伏見の里の なごり今 地名に残る 深草の秋   遊水

■ 「ゆうされば」の歌が彼の自信作だったのだろう。
■ この歌だけを見たとき、これをなぜ彼が表歌としたのかわからなかった。
■ 野鳥撮影をしている関係上、「鶉」と「深草」、この二つに興味があった。
■ それで短歌をつくってみた。
■ 俊成は伊勢物語・百二十三段・在原業平の歌をもとにして詠んだ。
■ 現在、伊勢物語に出てくる歌をどれだけの人が覚えているかどうかは知らない。
■ 当時としては、知っていることが、歌人としての条件だったのかもしれない。
■ それを自らの歌に詠みこむということが、まあ、「どうだ」ということだったのだろう。
■ 定家は、83番に、世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる、を選んだが、・・・
■ 099100を今回のように配置したとき、意味がなくなった。
■ 当時は身分不相応ということで「道」こそなけれであったかもしれないが、心配無用だ。
■ 俊成自身の表歌を取り上げることにした。
■ そして、「夕されば」を「夏されば」におきかえて、「あき」を「秋」と「飽き」の掛詞にし、「浜」に寄せる波と「さびしさ寄せる」を関連づけるような歌ができた。
■ 俊成の歌と意味的には全く関係ないが、「夕されば」の歌を知っている人なら、ははん、と分かるのかもしれない。
■ しかし、まあ、無関係でも、「夏されば」の歌は、これはこれでいいような気もする。
  • 098 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける  藤原家隆


■ 定家は「みそぎ」」ゆえに取り上げたと思われる。
■ 誰のための禊なのか、ということだろう。
藤原定家
藤原家隆 ・・・ 禊
後鳥羽上皇
■ この並びであるからこそが「禊」が必要だった。
■ 今回、051に後鳥羽上皇を移動し100に定家を置くことで、禊の意味は薄れてしまった。
■ 藤原のサダさん、もはや何も気にすることなどないのだよ。
■ と、いうことで、藤原家隆の歌を別の歌にしようかと思ったが、まあ、いい。
■ この歌は、気持ちの良い夏を詠っている。

○    ○

  • 099 
  • あのひとと ともにつかいし このまくら かおをうずめて おもいねるかな  遊水

かへりこぬ むかしをいまと おもひねの 
ゆめのまくらに にほふたちばな // 式子内親王

  • 100 
  • もしおやき こころこがして こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎろかも  遊水

こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎに 
やくやもしおの みもこがれつつ // 藤原定家










あせたるを ひとはよしとふ びんばくわの ほとけのくちは もゆべきものを 会津八一
  • しろたへの袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く  藤原定家

  • 母逝きて はや幾年か 忘れども 身にしむ色の 秋風ぞ吹く  橋本遊水
  • 寂しさは 誰でも同じ 秋の暮 

  • 知る人もなき 雑踏の中

  • 函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花  啄木
  • 新居浜の 星越町こそ 哀しけれ 更地になりて 衛星写真  遊水

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