■ 見てない。小説と同じかどうか。
■ おもろくなかった。
■ 探した。詩集はあったが、小説の方はどこかに紛れ込んでいる。
同人誌に載せるということで、作っていた。
何の縛りもなければ作らなかっただろう。
■ 駆けて行く
ありがとう いってうれしい ひなまつり
ああそうか それでいいのさ はるのあさ
えびフライ おやタラのめも ありますね
うかれでて さびしくかえる さくらかな
おちてくる ヒバリをまって かわらかな
すえっこは おくれてしまう カイツブリ
きのうえで あんただれやと アオバズク
めにいたく ざくろのはなの さきにけり
りょくいんや みきのむこうに だれかいる
かけてゆく きみのむこうに なつのうみ
■ 駆けて行く
ありがとう いってうれしい ひなまつり
ああそうか それでいいのさ はるのあさ
えびフライ おやタラのめも ありますね
うかれでて さびしくかえる さくらかな
おちてくる ヒバリをまって かわらかな
すえっこは おくれてしまう カイツブリ
きのうえで あんただれやと アオバズク
めにいたく ざくろのはなの さきにけり
りょくいんや みきのむこうに だれかいる
かけてゆく きみのむこうに なつのうみ
たいようと しろいテーブル しろいいす
あきくさの ゆれてセッカも ゆれにけり
あきくさの ゆれてセッカも ゆれにけり
ごみばこを ひっくりかえした おちばかな
きたかぜや よくこのみせと なみきみち
もうゆくの まどにちらつく こゆきかな
うでをくみ あるきましょうよ クリスマス
きたかぜや よくこのみせと なみきみち
もうゆくの まどにちらつく こゆきかな
うでをくみ あるきましょうよ クリスマス
ハイタカが とんでしずまる ふゆのたに
ジョウビタキ ふつうのひとが すきになる
ジョウビタキ ふつうのひとが すきになる
あいしてる それがいえずに しわすかな
こんなもんでどうだろう。2007-06-30
その他
山茶花や いつか来た道 回り道
隣から 寝息聞こえて 寒の入り
髪の毛が 肩にひとすじ 春隣
あれは何 誰か教えて 春近し
手探りで 部屋の灯りや 冴え返る
花盛り 一人ぽっちは 嫌ですよ
桜散る 昭和は過去と なりにけり
行く春や みんなどうして いるだろう
はすの花 浮き巣のそばに 映るかな
カルガモの 雛前になり 後になり
乙女像 乳首つんつん ツバメかな
お祭りの 準備見下ろす アオバズク
オオルリの さえずりたかき こずえかな
キビタキや ひごとにみどり ふかくなる
若き鷹 痩せて その眼の 光るかな
アオジ来て ズボンの裾に 草の種
恋心 雪のしんしん 積もる道
冬の夜 ふっと心に 恋の歌
水鳥の 数を数えて 冬の池
冬木立 見上げた空に 鷹の影
地吹雪や いつか素直に なっている
大根に 味よくしみて 年忘れ
スルメイカ 焼いて師走や 缶ビール
もう暮れか ときめくことも なくなりて
落ち着いた 時を刻んで 去年今年
雑煮食う 俺の人生 何だろう
■ 第六号、「キスナ」、って何
以前、俳句誌の、私の頁を開いて、人に、見せたことがある。
「シロ キスナ」って何ですか
と言われた。
「えっ、・・・」
頭脳に、一瞬の、空白ができた。
「キスナ」、って何だろう。
「シロキ スナ」、と書いても、同じかもしれない。
白き砂一粒落とす蟻地獄
このように書くと、問題は起こらないのかもしれない。
しろきすなひとつぶおとすありじごく 遊水
このように表記していたのだ。
自分には、思いもかけない質問だったが、重要な意味が隠れていた。
漢字混じりで書くと、イメージとして捉えやすいので、直ちに分かる。
反面、失われるものもある。
電報文の読み違え、
同音異義の、落語によく出てくる誤解、などの他、
掛詞的な、ことばあそび、
ことばの本質と相互理解など、
分かり易く、(誤解のないよう正確に)表現し、分かったと思うので、失われたことに気付かないだけだ。
声に出して読むと、それが復活してくるかもしれない。
眼で読むと、分かったような気になり、考えなくなる。
分かる、ということと、本当に理解するということは、違うことだが、混同してしまう。
話は変わるが、
「ミズ」に「ヨシ」と書いて、どう読むんでしょう。
「さてさて、目開きは不自由なものよ」、と。
塙保己一、の話だったかもしれない。
ミズにヨシと書いて、油(アブラ)と読む。
話は戻るが、
昔、例えば、松尾芭蕉の頃は、句読点は用いなかった。
濁点も、普通用いない。
それでは読みにくいと、句読点を付け、送りがなを追加し、読み仮名を付け、
更に、章立てなどした、解説本が出版されたりする。
章毎に、詳しい解説がある、解説主体の本になっている。
こうなると、例えば、「奥の細道」、を
原本の一行目から、最後まで通して、物語的に読むことができない。
そればかりか、重要なことを読み違えることにもなる。
現代人にとっては、当たり前に見えるだけに、その誤りに気付かない。
そういうことがある。
ひとつ指摘した。
俳句に関心があり、インターネットを利用できる方は、次のサイトで読むことができる。
「野鳥とホームページ」
このサイトの、「ことのは」の「心の旅・奥の細道」、に述べた。
物置、書置、据置
これらの場合は、「オキ」、と読む。
では、懸置
この場合は、どう読むか、
これを、「かけおき」、と読まず、「かけおく」、と読んだことで、問題が発生した。
面八句を庵の柱に懸置弥生も末の七日、
「かけおき」、と読むと、文章として続くが、
「かけおく」、と読むと、文章は続きもするし、そこで切れることも考えられる。
面八句を庵の柱に懸置。
弥生も末の七日、
切れると考えると、「。」を付けてしまう。
一見、無理のないことのようではあるが、それでよいのか、
草の戸も住替わる代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置弥生も末の七日、
このように、「おくのほそ道」のこの文章の前に、句があったものだから、混乱したようだ。
そして、「表八句」、をとは何かを知るべく、調査したのだ。
しかし、いくら探しても、見つからない。
従って、「この一節は芭蕉の創作と見るべきであろう。」、などと結論付けるに至った。
おそらく、学者が探して見つからなかったので、現存はしないだろう。
しかし、「表八句」、をなかった、とするのは、いかにも、学者らしいやり方だ。
つまり、俺がこれだけ時間をかけ丹念に探したことを、無駄だった、と認めたくなかったものとみえる。
そこで、「創作と見るべきであろう」、という研究成果にしたのだ。ところが、
面八句を庵の柱に懸け置き弥生も末の七日、
このように、「かけおき」、と読めば、この部分の章立てもすっきりする。
むつましきかぎりは宵よりつどいて船に乗りて送る
このような時間を無視したような書き方とよく似ている。
■ 雪と愛
その日は、珍しく、雪だった。
昨夜から、降り続いている。
もう大分積ったことだろう。
正岡子規は、脊椎カリエスで、寝たきりの状態だ。
寝床から、降る雪を眺めていた。庭はよく見えない。
もうかなり積ったに違いない。
どうなんだろう、・・・。
いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規
転げ周り、走る子犬のように、雪を感じたかった。
でも、できない、・・・。
そんな子規は、こんな俳句を作った。
さて、時は移り、昭和のあるとき、国語の時間に、問題が出されたそうな。
「雪」の部分が空白で、・・・、ここにどんな言葉が入るでしょうか、考えてください、と。
いくたびも□□の深さを尋ねけり
生徒達は、みんな、考えた。
色々答えが出た。
そして、ある少女は、「あい」という言葉を当てはめた。
・・・、素晴らしい。
病床にあって、子規が、知りたくて、知りたくて、しょうがなかっなかったものは、「雪の深さ」だった。
でも、まだ、少女はそれには気付いていない。
何なんだろう、と自分のこととして考えた。
いま、自分が、知りたくて、知りたくて、確かめたくて、確かめたくて、しょうがないこと、・・・。
それは、「愛の深さ」だった。
愛の深さは、雪の深さのように物指しを差し込んで測ればいい、というようなものではない。
むずかしい。
なまじ、俳句などやっているものは、「あい」のはずなどないだろう。
それじゃあ、季語がないじゃないか。
この二文字は季語のはずだ、・・・などと言うかもしれない。
季語、・・・??、そんなもん、どうだっていいのだ。
俳句、・・・??、そんなもん、どうだっていいのだ。
肝心なことは、「ことば」に、どんな思いを、どんな「こころ」を込めようとしたのか、ということだ。
思い付いたのは、雪ではなく、愛だったけれど、少女は、知りたくて、知りたくて、という子規の心を感じ取った。
子規が、言葉に込めた「こころ」を感じ取った。
そして、愛だと確信したとき、少女は、自分のこころを俳句にしていた人がいたんだ、と思ったに違いない。
いくたびも愛の深さを尋ねけり
悩んでいたのは、私だけじゃなかった、・・・、と。
だが、答えを知らされて、自分とは、別の思いをもつ人がいることに気付かされただろう。
健康な自分は、すぐ知ることのできることでも、病床にある人にとっては、そうではないことも、・・・。
このあと、少女は、このことをきっかけに、人への思いやりにも気付いただろうし、・・・。
色々なことを知りたい、・・・ということになっただろう。
あるいは、今頃、俳句や短歌を作っているかもしれない。
俳句は、言葉に「こころ」をこめる箱のようなものだ。
ふたを開けると、それが見える。
たとえ自分で作ったものでなくても、そんな、こころの小箱を幾つももっている人は幸せだ。
そして、小さな箱だから、誰にでも作ることができる。
最初はうまく作れなくても、幾つか作っているうちに、きっと、素晴らしい小箱ができるだろう。
あなた自身が作ったステキな小箱が、・・・。
2007-05-30 追記
古い切り抜きが出てきた。
日経新聞の「プロムナード」の欄、秦恒平「愛の魅惑」のなかに、滋賀県の高校の国語の時間のことが書かれている。
「愛」と答えたのは、どうも、男子生徒だったようだ。
■ むくどりが 背中まるめて 寒いのお
鶯を 撮って年の 初めかな
鶯や 行くて左は 大文字
レンゲ草 雉は埋もれて しまいけり
落ちてくる 雲雀を待って 川原かな
オオルリや 緑だんだん 濃ゆくなる
背の丈を 超えた葦原 行々子
カルガモの 雛前になり 後になり
親の背に 親より先を 急ぐ雛
末っ子は 遅れてしまう カイツブリ
どの鳥も 巣材集めや 鷺の島
お祭りの 準備見下ろす アオバズク
木の上で あんた誰やと アオバズク
若き鷹 痩せて その眼の 光るかな
庭先の 石榴は割れて ヒヨの声
穏やかな 秋の一日 イカル啼く
秋晴れと 午後の紅茶と 小鳥たち
秋草の 揺れてセッカも 揺れにけり
秋霖や ツツドリ待ちて 丘の上
ツツドリや 桜紅葉の 始まりて
渡り鳥 今日は何処か 旅の空
水鳥の 浮かぶ季節と なりにけり
水鳥の 数を数えて 冬の池
翡翠の 嘴の先 冬の池
さよならの 後もコゲラは 木をつつく
透明の 時の向こうに 夏の海
ペリカンに 水ぶっかけられて 日焼けかな
アオバズク 今日また君に 見つめられ
ヒナ三羽 祇園祭の 頃にでる
老骨に またまた 夏の来たりける
見上げれば 昨日と同じ アオバズク
しゅうかくの うれしさわけて もらいけり
啄木鳥の 音は近くに 冬木立
沈丁花 今日この街を 跡にする
いい句を作ろうとするから、なかなかできない。
適当に、575とやってみればいいのだ。
春なのか 雑踏の中 あいうえお
春が来た ひとつ俳句を かきくけこ
まだ雪が 山にあるぞと さしすせそ
冬鳥も それぞれ北へ たちつてと
春一番 朝刊すこし 濡れている
公園の 巣材運びの 小鳥たち
今年また 帰ってきたか アオバズク
さえずりや ナルキッサスという名前
オオルリと サンコウチョウも いましたか
ここちよい 風の季節と なりにけり
砂時計 音なき夏の 昼下がり
砂時計 音なき夏の 名残りかな
□□□□□ 歌は心を つなぐから
ちかてつを おりてしんめの なみきみち
わがむねを まくらがわりに なつのたび
よみかけの ほんかたづけて なつぼうし
しゅうかくの うれしさわけて もらいけり
あめのあと きんもくせいの よくかおる
あきにれを とびだすとりの おおさかな
ドングリや きょうはこうちゃに しましょうか
あかちゃんに えがおでこたえ ひなたぼこ
リンゴリンゴ リンゴのすきな きみがいる
たいおんの ちがいかんじる ふゆのよる
おそれずに いまならこいが できるかも
よくあさは かおをあわせず わかれけり
きずついて おちるゆうひが はやすぎる
じてんしゃを とめてゆうひの しずむまで
だいりせき みぎてをつよく おしあてる
トビがとんでいる そらをみていた
■ おいおきろ、「うろこ」第十五号、16句
おいおきろ れっしゃのまどに ゆきげしき
ひんやりと ひたいにははの あたたかさ
てのひらに みつぶ ひとりの かぜぐすり
ゆきのよも うたはこころを つなぐから
ああそうだ いつかまよって じんちょうげ
はるのひは のんべんだらりと すぎゆくか
しんりょくや こんなちかくに あおいとり
こうえんの すざいはこびの ことりたち
ここちよい かぜのきせつと なりにけり
ケリとんで さなえにかぜの わたりゆく
たにこえて こっちにきたか ホトトギス
あれよあれ あれじゃわからん なつのかぜ
ひさしぶり であったひとと アオバズク
あのひとの おもいでとおき アオバズク
こうすいの ほのかにきせつ うつるかな
風鈴は外せ 風は涼しく 吹いている
こんなもんでどうだろう。2007-06-30
その他
山茶花や いつか来た道 回り道
隣から 寝息聞こえて 寒の入り
髪の毛が 肩にひとすじ 春隣
あれは何 誰か教えて 春近し
手探りで 部屋の灯りや 冴え返る
花盛り 一人ぽっちは 嫌ですよ
桜散る 昭和は過去と なりにけり
行く春や みんなどうして いるだろう
はすの花 浮き巣のそばに 映るかな
カルガモの 雛前になり 後になり
乙女像 乳首つんつん ツバメかな
お祭りの 準備見下ろす アオバズク
オオルリの さえずりたかき こずえかな
キビタキや ひごとにみどり ふかくなる
若き鷹 痩せて その眼の 光るかな
アオジ来て ズボンの裾に 草の種
恋心 雪のしんしん 積もる道
冬の夜 ふっと心に 恋の歌
水鳥の 数を数えて 冬の池
冬木立 見上げた空に 鷹の影
地吹雪や いつか素直に なっている
大根に 味よくしみて 年忘れ
スルメイカ 焼いて師走や 缶ビール
もう暮れか ときめくことも なくなりて
落ち着いた 時を刻んで 去年今年
雑煮食う 俺の人生 何だろう
■ 第六号、「キスナ」、って何
以前、俳句誌の、私の頁を開いて、人に、見せたことがある。
「シロ キスナ」って何ですか
と言われた。
「えっ、・・・」
頭脳に、一瞬の、空白ができた。
「キスナ」、って何だろう。
「シロキ スナ」、と書いても、同じかもしれない。
白き砂一粒落とす蟻地獄
このように書くと、問題は起こらないのかもしれない。
しろきすなひとつぶおとすありじごく 遊水
このように表記していたのだ。
自分には、思いもかけない質問だったが、重要な意味が隠れていた。
漢字混じりで書くと、イメージとして捉えやすいので、直ちに分かる。
反面、失われるものもある。
電報文の読み違え、
同音異義の、落語によく出てくる誤解、などの他、
掛詞的な、ことばあそび、
ことばの本質と相互理解など、
分かり易く、(誤解のないよう正確に)表現し、分かったと思うので、失われたことに気付かないだけだ。
声に出して読むと、それが復活してくるかもしれない。
眼で読むと、分かったような気になり、考えなくなる。
分かる、ということと、本当に理解するということは、違うことだが、混同してしまう。
話は変わるが、
「ミズ」に「ヨシ」と書いて、どう読むんでしょう。
「さてさて、目開きは不自由なものよ」、と。
塙保己一、の話だったかもしれない。
ミズにヨシと書いて、油(アブラ)と読む。
話は戻るが、
昔、例えば、松尾芭蕉の頃は、句読点は用いなかった。
濁点も、普通用いない。
それでは読みにくいと、句読点を付け、送りがなを追加し、読み仮名を付け、
更に、章立てなどした、解説本が出版されたりする。
章毎に、詳しい解説がある、解説主体の本になっている。
こうなると、例えば、「奥の細道」、を
原本の一行目から、最後まで通して、物語的に読むことができない。
そればかりか、重要なことを読み違えることにもなる。
現代人にとっては、当たり前に見えるだけに、その誤りに気付かない。
そういうことがある。
ひとつ指摘した。
俳句に関心があり、インターネットを利用できる方は、次のサイトで読むことができる。
「野鳥とホームページ」
このサイトの、「ことのは」の「心の旅・奥の細道」、に述べた。
その一部の、「かけおき」と読む、の項を以下に再録する。
一度、学者によって、「ヨミ」がつけられると、普通の人は、そのまま読んでしまう。
「置」、と言う文字は、例えば、
一度、学者によって、「ヨミ」がつけられると、普通の人は、そのまま読んでしまう。
「置」、と言う文字は、例えば、
物置、書置、据置
これらの場合は、「オキ」、と読む。
では、懸置
この場合は、どう読むか、
これを、「かけおき」、と読まず、「かけおく」、と読んだことで、問題が発生した。
面八句を庵の柱に懸置弥生も末の七日、
「かけおき」、と読むと、文章として続くが、
「かけおく」、と読むと、文章は続きもするし、そこで切れることも考えられる。
面八句を庵の柱に懸置。
弥生も末の七日、
切れると考えると、「。」を付けてしまう。
一見、無理のないことのようではあるが、それでよいのか、
草の戸も住替わる代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置弥生も末の七日、
このように、「おくのほそ道」のこの文章の前に、句があったものだから、混乱したようだ。
そして、「表八句」、をとは何かを知るべく、調査したのだ。
しかし、いくら探しても、見つからない。
従って、「この一節は芭蕉の創作と見るべきであろう。」、などと結論付けるに至った。
おそらく、学者が探して見つからなかったので、現存はしないだろう。
しかし、「表八句」、をなかった、とするのは、いかにも、学者らしいやり方だ。
つまり、俺がこれだけ時間をかけ丹念に探したことを、無駄だった、と認めたくなかったものとみえる。
そこで、「創作と見るべきであろう」、という研究成果にしたのだ。ところが、
面八句を庵の柱に懸け置き弥生も末の七日、
このように、「かけおき」、と読めば、この部分の章立てもすっきりする。
むつましきかぎりは宵よりつどいて船に乗りて送る
このような時間を無視したような書き方とよく似ている。
■ 雪と愛
その日は、珍しく、雪だった。
昨夜から、降り続いている。
もう大分積ったことだろう。
正岡子規は、脊椎カリエスで、寝たきりの状態だ。
寝床から、降る雪を眺めていた。庭はよく見えない。
もうかなり積ったに違いない。
どうなんだろう、・・・。
いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規
転げ周り、走る子犬のように、雪を感じたかった。
でも、できない、・・・。
そんな子規は、こんな俳句を作った。
さて、時は移り、昭和のあるとき、国語の時間に、問題が出されたそうな。
「雪」の部分が空白で、・・・、ここにどんな言葉が入るでしょうか、考えてください、と。
いくたびも□□の深さを尋ねけり
生徒達は、みんな、考えた。
色々答えが出た。
そして、ある少女は、「あい」という言葉を当てはめた。
・・・、素晴らしい。
病床にあって、子規が、知りたくて、知りたくて、しょうがなかっなかったものは、「雪の深さ」だった。
でも、まだ、少女はそれには気付いていない。
何なんだろう、と自分のこととして考えた。
いま、自分が、知りたくて、知りたくて、確かめたくて、確かめたくて、しょうがないこと、・・・。
それは、「愛の深さ」だった。
愛の深さは、雪の深さのように物指しを差し込んで測ればいい、というようなものではない。
むずかしい。
なまじ、俳句などやっているものは、「あい」のはずなどないだろう。
それじゃあ、季語がないじゃないか。
この二文字は季語のはずだ、・・・などと言うかもしれない。
季語、・・・??、そんなもん、どうだっていいのだ。
俳句、・・・??、そんなもん、どうだっていいのだ。
肝心なことは、「ことば」に、どんな思いを、どんな「こころ」を込めようとしたのか、ということだ。
思い付いたのは、雪ではなく、愛だったけれど、少女は、知りたくて、知りたくて、という子規の心を感じ取った。
子規が、言葉に込めた「こころ」を感じ取った。
そして、愛だと確信したとき、少女は、自分のこころを俳句にしていた人がいたんだ、と思ったに違いない。
いくたびも愛の深さを尋ねけり
悩んでいたのは、私だけじゃなかった、・・・、と。
だが、答えを知らされて、自分とは、別の思いをもつ人がいることに気付かされただろう。
健康な自分は、すぐ知ることのできることでも、病床にある人にとっては、そうではないことも、・・・。
このあと、少女は、このことをきっかけに、人への思いやりにも気付いただろうし、・・・。
色々なことを知りたい、・・・ということになっただろう。
あるいは、今頃、俳句や短歌を作っているかもしれない。
俳句は、言葉に「こころ」をこめる箱のようなものだ。
ふたを開けると、それが見える。
たとえ自分で作ったものでなくても、そんな、こころの小箱を幾つももっている人は幸せだ。
そして、小さな箱だから、誰にでも作ることができる。
最初はうまく作れなくても、幾つか作っているうちに、きっと、素晴らしい小箱ができるだろう。
あなた自身が作ったステキな小箱が、・・・。
2007-05-30 追記
古い切り抜きが出てきた。
日経新聞の「プロムナード」の欄、秦恒平「愛の魅惑」のなかに、滋賀県の高校の国語の時間のことが書かれている。
「愛」と答えたのは、どうも、男子生徒だったようだ。
■ むくどりが 背中まるめて 寒いのお
鶯を 撮って年の 初めかな
鶯や 行くて左は 大文字
レンゲ草 雉は埋もれて しまいけり
落ちてくる 雲雀を待って 川原かな
オオルリや 緑だんだん 濃ゆくなる
背の丈を 超えた葦原 行々子
カルガモの 雛前になり 後になり
親の背に 親より先を 急ぐ雛
末っ子は 遅れてしまう カイツブリ
どの鳥も 巣材集めや 鷺の島
お祭りの 準備見下ろす アオバズク
木の上で あんた誰やと アオバズク
若き鷹 痩せて その眼の 光るかな
庭先の 石榴は割れて ヒヨの声
穏やかな 秋の一日 イカル啼く
秋晴れと 午後の紅茶と 小鳥たち
秋草の 揺れてセッカも 揺れにけり
秋霖や ツツドリ待ちて 丘の上
ツツドリや 桜紅葉の 始まりて
渡り鳥 今日は何処か 旅の空
水鳥の 浮かぶ季節と なりにけり
水鳥の 数を数えて 冬の池
翡翠の 嘴の先 冬の池
■ 井上靖「猟銃」を読んで
かきつばた 着物の柄に ピンときて
気になる記述、井上靖・猟銃、追記
二人行く 姿焼付き 曼珠沙華
二人行く 姿焼付き 曼珠沙華
嫉妬に燃える 心にも似て
■ Tennessee Waltz を聴きながら
恋人を 友に盗られて 花吹雪
失恋を あっけらかんと 歌いけり
■
さよならの 後もコゲラは 木をつつく
透明の 時の向こうに 夏の海
ペリカンに 水ぶっかけられて 日焼けかな
アオバズク 今日また君に 見つめられ
ヒナ三羽 祇園祭の 頃にでる
老骨に またまた 夏の来たりける
見上げれば 昨日と同じ アオバズク
霧晴れて 遥かに海を 望むかな
我が胸を 枕代わりに 夏の旅
夏の夜 ボタンが取れて しまいけり
夏の夜 ボタンが取れて しまいけり
しゅうかくの うれしさわけて もらいけり
啄木鳥の 音は近くに 冬木立
干からびて 風に吹かれて 柘榴の実
雪積もり やさしく夜は 更けてゆく
沈丁花 今日この街を 跡にする
ふるさとの 田んぼの道や まんじゅしゃげ
とりあえず なんでんかんでん 575
とりあえず なんでんかんでん 575
いい句を作ろうとするから、なかなかできない。
適当に、575とやってみればいいのだ。
公園の ベンチにいつも ルリビタキ
自転車の 前のベンチに ルリビタキ
撮り飽きて 今日は撮らずに ルリビタキ
自転車の 前のベンチに ルリビタキ
撮り飽きて 今日は撮らずに ルリビタキ
帰り道 氷は解けて コガモかな
カワセミは 少し遠くに 冬の池
冬の日の 翡翠の羽に 光るかな
カワセミは 少し遠くに 冬の池
冬の日の 翡翠の羽に 光るかな
■ いろは遊び
春なのか 雑踏の中 あいうえお
春が来た ひとつ俳句を かきくけこ
まだ雪が 山にあるぞと さしすせそ
冬鳥も それぞれ北へ たちつてと
春うらら 予定も何も なにぬねの
熱々の おでんを口に はひふへほ
赤ちゃんの 毛糸の帽子 まみむめも
汗かいて 背中が痒い やいゆえよ
年忘れ 大酒飲んで らりるれる
熱々の おでんを口に はひふへほ
赤ちゃんの 毛糸の帽子 まみむめも
汗かいて 背中が痒い やいゆえよ
年忘れ 大酒飲んで らりるれる
春一番 朝刊すこし 濡れている
春の日は のんべんだらりと 過ぎゆくか
公園の 巣材運びの 小鳥たち
今年また 帰ってきたか アオバズク
さえずりや ナルキッサスという名前
オオルリと サンコウチョウも いましたか
ここちよい 風の季節と なりにけり
砂時計 音なき夏の 昼下がり
砂時計 音なき夏の 名残りかな
□□□□□ 歌は心を つなぐから
夏、と書き 消してコーヒー 秋の風
■ そらをみていた、「うろこ」第十一号、
■ そらをみていた、「うろこ」第十一号、
さえずりの まだぎこちない やぶのなか
さんぱつや あたまがはるに なってでる
さんぱつや あたまがはるに なってでる
ちかてつを おりてしんめの なみきみち
わがむねを まくらがわりに なつのたび
よみかけの ほんかたづけて なつぼうし
しゅうかくの うれしさわけて もらいけり
あめのあと きんもくせいの よくかおる
あきにれを とびだすとりの おおさかな
ドングリや きょうはこうちゃに しましょうか
あかちゃんに えがおでこたえ ひなたぼこ
リンゴリンゴ リンゴのすきな きみがいる
たいおんの ちがいかんじる ふゆのよる
おそれずに いまならこいが できるかも
よくあさは かおをあわせず わかれけり
きずついて おちるゆうひが はやすぎる
じてんしゃを とめてゆうひの しずむまで
だいりせき みぎてをつよく おしあてる
トビがとんでいる そらをみていた
■ 今年のまとめ。 ■ 2009-02 俳句誌「うろこ」用。 ■ 編集長、よろしく。 |
■ おいおきろ、「うろこ」第十五号、16句
おいおきろ れっしゃのまどに ゆきげしき
ひんやりと ひたいにははの あたたかさ
てのひらに みつぶ ひとりの かぜぐすり
ゆきのよも うたはこころを つなぐから
ああそうだ いつかまよって じんちょうげ
はるのひは のんべんだらりと すぎゆくか
しんりょくや こんなちかくに あおいとり
こうえんの すざいはこびの ことりたち
ここちよい かぜのきせつと なりにけり
ケリとんで さなえにかぜの わたりゆく
たにこえて こっちにきたか ホトトギス
あれよあれ あれじゃわからん なつのかぜ
ひさしぶり であったひとと アオバズク
あのひとの おもいでとおき アオバズク
こうすいの ほのかにきせつ うつるかな
風鈴は外せ 風は涼しく 吹いている
■ おい起きろ
あかちゃんに えがおでこたえ ひなたぼこ
あかちゃんに えがおでこたえ ひなたぼこ
よみかけの ほんかたづけて なつぼうし
みつめられ みつめかして アオバズク
さえずりの まだぎこちない やぶのなか
ドングリや きょうはこうちゃに しましょうか
おいおきろ れっしゃのまどに なつのうみ