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2025年1月20日月曜日

安東次男、八重むぐら、と、定家としては、百人秀歌が最終稿の話



■ 2025-01-20
■ 今日は大寒か、さほど寒くないけれど。
■ 源氏物語の4番目は、夕顔、だ。
■ 物語性のある章だ。
■ 安東次男・百人一首、47番・八重むぐら・・・、この項にこの夕顔関連の話か出てくる。
■ 安東次男・完本・風狂始末・芭蕉連句評釈・猿蓑・鳶の羽の巻、にある連句だ。

  1. 痩骨のまだ起直る力なき      史邦
  2.   隣をかりて車引こむ      凡兆
  3. うき人を枳穀垣よりくぐらせん   芭蕉
  4.   いまや別の刀さしだす     去来

■ 我田引水的な感じもしたが、安東は、
  • 恋の歌を季(秋)の歌に移しているところも例によって晩年の定家の好みである。・・・合わせるということは、もともとの歌の姿とは別な面白さをそこに発見することでもあるから、そう眺めることもあながち理由のないことではなくて、後世、芭蕉も、猿蓑の歌仙の中でこの歌から恋の余情を汲出してはこんでいる。
■ としている。
■ 安東次男は、1 ~ 3、を上げているが、夕顔を読んで、4、も付け加えてもいいかな、と思った。
■ ここで「合わせるということは」と書いているが、安東の本は「百人一首」という題だが、「百人秀歌」という題で語った方がよかったと思われる。
■ ついでながら、百人一首の成立は
  1. 百人秀歌
  2. 百人一首
■ この順だとされているが、おそらく、そうではなく、・・・
  1. 原本 百人秀歌 藤原定家
  2. 原本 百人一首 後世の編者
■ このように考えた方がよいようにも思われる。
■ 要するに、原本が他に存在したと考えるのが論理的で、安東次男のように、2首づつ対にして捉えるのがよいように思われる。
■ 塚本邦雄は個々の歌に注目して、その作者にはもっといい歌がある、としたが、
■ 安東の歌の解説は必ずしも賛成できない部分もあるが、対にして、考えるという姿勢だ。
■ 私は研究者ではないのでよく知らないが、百人一首の研究は、まだ、初歩の段階かもしれないと思う。視点の誤りがあるのではないだろうか。
■ 百人一首は捨てて、百人秀歌を研究するのがいいように思う。

2024年5月20日月曜日

芭蕉は、木曽義仲は好きだったが、源義経は嫌いだった、のか。


■ 2024-05-20
■ 昨日の「日本語日記」・五郎とミサト、に、
 
どちらもフィクション作品の登場人物なので、作品を知らない人には分かりません。しかし知っている人であれば・・・人名のような固有名詞の引用は、作品を味わい深くする効果がありそうですね。

■ などとあるが、先にあげた万太郎の句の團十郎も、江藤淳のカフカの「城」にしても知らない。
■ だから、どうでもいい、ということになる。
■ 江藤淳は自己の同一性は批評家であるとして、夏目漱石や小林秀雄を取り上げている。
■ 小林秀雄は、考えるヒント・「批評」に、

批評とは人をほめる特殊の技術だ・・・
ある対象を批評するとは、それを正しく評価する事であり、・・・

■ なとどと書いている。
■ 例えば、松尾芭蕉は俳人ではなく、俳諧師であるが、・・・
■ 奥の細道、の

「国破れて山河あり。城春にして青々たり」と、笠打敷きて、時のうつるまで、なみだを落とし侍りぬ。
夏艸や兵共が夢の跡

■ 人は、これをどのように評価するか、とは取り上げないが、・・・
■ 兵共、を、つわものども、と読むならば、今の言葉の感覚からすれば、見下げた表現であり、何が「なみだを落とし侍りぬ」だ、恰好つけて、と、松尾芭蕉の人間性に疑いをもつ。
■ 芭蕉の人間性については、ここばかりでなく、奥の細道の随所にある。
■ 私がこうした感想をもつのは、批評家、とか、評論家ではなく、俳句の作者、短歌の作者の立場からの言葉遣いに関する感じ方からだ。
■ この場合、芭蕉の人間性というより、好き嫌いからくるのかもしれない。木曽義仲は好きだったが、源義経は嫌いだった、という観点から言葉遣いをみることができる。
■ 批評は、ほめる、ばかりではない。
■ いわば、通説をどう見るか、であろう。
■ もっとも、

三代の栄耀、一睡の中にして、・・・秀衡が跡は、・・・泰衡が旧跡は、・・・ゑぞをふせぐと見えたり。扨ても、義臣すぐつて此城に籠り、功名、一時の草村となる。

■ と、藤原三代にふれていて、義経のことを言っているわけではない。
■ しかし、「ゑぞをふせぐと見えたり」などとあるが、「ゑぞ」と戦ったわけではなく、滅ぼしたのは源頼朝の軍勢で、義経を許さんとする頼朝の意志からだった。
■ それはさておき、ひとつの句を作者から独立させてみるとき、その句のもつ本質的な意味がわかる。
■ 江藤淳は自己の同一性は批評家であリ、小林秀雄も同様だ。
■ 逆に言えば、俳人でも歌人でもない。芸術家でもない。

批評家
芸術家
俳人
歌人

作家
物書き
歌手
歌うたい

■ こうした用語で、人を分類する。
■ このような世俗的分類に自己・同一性を求めようとするのは、必ずしも間違いではない。否定しない。

選手
・・・

■ など、収入面、名声面で、それが人生だとする人も多い。
■ しかし、・・・
■ まあ、いいか。
■ ・・・
■ 小林秀雄は、
芭蕉は、弟子の木節に「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答へたさうである。・・・純粋な芭蕉の鑑識が光ってゐる様に感じられ、・・・
僕らは西行と実朝をまるで違った歌人の様に考え勝ちだが、実は非常によく似た所のある誌魂なのである。
■ このように、書いている。
■ その芭蕉の鑑識を自分なりに考えだのだろう、けれど、どうか、・・・
■ 芭蕉がどのように鑑賞しようと、奥の細道に見られるような、芭蕉の在り方に、俳諧師的なにおいが感じられて必ずしも、肯定したくない部分がある。