■ 昨日の「日本語日記」・五郎とミサト、に、
どちらもフィクション作品の登場人物なので、作品を知らない人には分かりません。しかし知っている人であれば・・・人名のような固有名詞の引用は、作品を味わい深くする効果がありそうですね。
■ などとあるが、先にあげた万太郎の句の團十郎も、江藤淳のカフカの「城」にしても知らない。
■ だから、どうでもいい、ということになる。
■ 江藤淳は自己の同一性は批評家であるとして、夏目漱石や小林秀雄を取り上げている。
■ 小林秀雄は、考えるヒント・「批評」に、
批評とは人をほめる特殊の技術だ・・・ある対象を批評するとは、それを正しく評価する事であり、・・・
■ なとどと書いている。
■ 例えば、松尾芭蕉は俳人ではなく、俳諧師であるが、・・・
■ 奥の細道、の
「国破れて山河あり。城春にして青々たり」と、笠打敷きて、時のうつるまで、なみだを落とし侍りぬ。夏艸や兵共が夢の跡
■ 人は、これをどのように評価するか、とは取り上げないが、・・・
■ 兵共、を、つわものども、と読むならば、今の言葉の感覚からすれば、見下げた表現であり、何が「なみだを落とし侍りぬ」だ、恰好つけて、と、松尾芭蕉の人間性に疑いをもつ。
■ 芭蕉の人間性については、ここばかりでなく、奥の細道の随所にある。
■ 私がこうした感想をもつのは、批評家、とか、評論家ではなく、俳句の作者、短歌の作者の立場からの言葉遣いに関する感じ方からだ。
■ この場合、芭蕉の人間性というより、好き嫌いからくるのかもしれない。木曽義仲は好きだったが、源義経は嫌いだった、という観点から言葉遣いをみることができる。
■ 批評は、ほめる、ばかりではない。
■ いわば、通説をどう見るか、であろう。
■ もっとも、
三代の栄耀、一睡の中にして、・・・秀衡が跡は、・・・泰衡が旧跡は、・・・ゑぞをふせぐと見えたり。扨ても、義臣すぐつて此城に籠り、功名、一時の草村となる。
■ と、藤原三代にふれていて、義経のことを言っているわけではない。
■ しかし、「ゑぞをふせぐと見えたり」などとあるが、「ゑぞ」と戦ったわけではなく、滅ぼしたのは源頼朝の軍勢で、義経を許さんとする頼朝の意志からだった。
■ それはさておき、ひとつの句を作者から独立させてみるとき、その句のもつ本質的な意味がわかる。
■ 江藤淳は自己の同一性は批評家であリ、小林秀雄も同様だ。
■ 逆に言えば、俳人でも歌人でもない。芸術家でもない。
批評家芸術家俳人歌人
作家物書き歌手歌うたい
■ こうした用語で、人を分類する。
■ このような世俗的分類に自己・同一性を求めようとするのは、必ずしも間違いではない。否定しない。
選手・・・
■ など、収入面、名声面で、それが人生だとする人も多い。
■ しかし、・・・
■ まあ、いいか。
■ ・・・
■ 小林秀雄は、
芭蕉は、弟子の木節に「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答へたさうである。・・・純粋な芭蕉の鑑識が光ってゐる様に感じられ、・・・僕らは西行と実朝をまるで違った歌人の様に考え勝ちだが、実は非常によく似た所のある誌魂なのである。
■ このように、書いている。
■ その芭蕉の鑑識を自分なりに考えだのだろう、けれど、どうか、・・・
■ 芭蕉がどのように鑑賞しようと、奥の細道に見られるような、芭蕉の在り方に、俳諧師的なにおいが感じられて必ずしも、肯定したくない部分がある。
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