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■ 江藤淳・小林秀雄、に、
人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するであろうか。
■ こんなことを書いている。▶ 試し読み
■ 批評家という言葉に問題があるのかもしれない。
■ 自分なら、こうする、自分ならこう考える、ということだ。
■ その対象を自分の外に置くと、批評、という形になる。
- だれかどこかで何かさゝやけり春隣 万太郎
■ こんな句がある、何か気になる。
■ 自分だったら、と思う。
- うたたねの どこかでだれか ささやける 遊水
■ 先にこんなことを書いた。
■ 万太郎、と、遊水、の句を並べ置いて比較してみる。
■ それぞれが何を表現しようとしているのか、
■ あるいは、遊水、が、万太郎、の真似をしているだけなのか、
- うたたねの どこかでだれか ささやける
- だれかどこかで何かさゝやけり春隣
■ こうして並べ置いてみたとき、自分だったら、それぞれの句から何を感じるか、ということだ。
■ そして、例えば、俳句は一応、5・7・5、だけれど、どうだろう、とか
■ ささやく、のだから、何か、と書く必要はあるのだろうか、とか
■ いや、何をささやいているのか分からないから、何か、という言葉は必要だ、とか
■ 春隣、は何かとってつけた感じもする、とか、
■ 対象として、自分とは距離を置いて、考え、書く、のが批評かもしれない。
■ 対象が、一つの句であれば、別に、好きか嫌いで、記憶するかどうかだ。
■ いい句だな、と思えば、記憶するだろうし、そうでなければ、読み飛ばすだけだろう。
■ ただ、この句に関しては、私だったら、どう表現するか、と自分のものとして取り上げた。
■ あるいは、彼の感性を再生しえた、自分のものにした、とでもいえるのかもしれない。
■ 句集、とか、本にして出版することは、広く他の人に読ませるということだから、
■ まあ、声に出して読んでみると、どちらがすっと頭に入ってくるか、それは重要なコトだ。
■ いいな、分かるな、と共感するものがあれば、他に、どんな句があるのだろうか、と興味、関心が沸くということだろう。
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