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2024年5月20日月曜日

芭蕉は、木曽義仲は好きだったが、源義経は嫌いだった、のか。


■ 2024-05-20
■ 昨日の「日本語日記」・五郎とミサト、に、
 
どちらもフィクション作品の登場人物なので、作品を知らない人には分かりません。しかし知っている人であれば・・・人名のような固有名詞の引用は、作品を味わい深くする効果がありそうですね。

■ などとあるが、先にあげた万太郎の句の團十郎も、江藤淳のカフカの「城」にしても知らない。
■ だから、どうでもいい、ということになる。
■ 江藤淳は自己の同一性は批評家であるとして、夏目漱石や小林秀雄を取り上げている。
■ 小林秀雄は、考えるヒント・「批評」に、

批評とは人をほめる特殊の技術だ・・・
ある対象を批評するとは、それを正しく評価する事であり、・・・

■ なとどと書いている。
■ 例えば、松尾芭蕉は俳人ではなく、俳諧師であるが、・・・
■ 奥の細道、の

「国破れて山河あり。城春にして青々たり」と、笠打敷きて、時のうつるまで、なみだを落とし侍りぬ。
夏艸や兵共が夢の跡

■ 人は、これをどのように評価するか、とは取り上げないが、・・・
■ 兵共、を、つわものども、と読むならば、今の言葉の感覚からすれば、見下げた表現であり、何が「なみだを落とし侍りぬ」だ、恰好つけて、と、松尾芭蕉の人間性に疑いをもつ。
■ 芭蕉の人間性については、ここばかりでなく、奥の細道の随所にある。
■ 私がこうした感想をもつのは、批評家、とか、評論家ではなく、俳句の作者、短歌の作者の立場からの言葉遣いに関する感じ方からだ。
■ この場合、芭蕉の人間性というより、好き嫌いからくるのかもしれない。木曽義仲は好きだったが、源義経は嫌いだった、という観点から言葉遣いをみることができる。
■ 批評は、ほめる、ばかりではない。
■ いわば、通説をどう見るか、であろう。
■ もっとも、

三代の栄耀、一睡の中にして、・・・秀衡が跡は、・・・泰衡が旧跡は、・・・ゑぞをふせぐと見えたり。扨ても、義臣すぐつて此城に籠り、功名、一時の草村となる。

■ と、藤原三代にふれていて、義経のことを言っているわけではない。
■ しかし、「ゑぞをふせぐと見えたり」などとあるが、「ゑぞ」と戦ったわけではなく、滅ぼしたのは源頼朝の軍勢で、義経を許さんとする頼朝の意志からだった。
■ それはさておき、ひとつの句を作者から独立させてみるとき、その句のもつ本質的な意味がわかる。
■ 江藤淳は自己の同一性は批評家であリ、小林秀雄も同様だ。
■ 逆に言えば、俳人でも歌人でもない。芸術家でもない。

批評家
芸術家
俳人
歌人

作家
物書き
歌手
歌うたい

■ こうした用語で、人を分類する。
■ このような世俗的分類に自己・同一性を求めようとするのは、必ずしも間違いではない。否定しない。

選手
・・・

■ など、収入面、名声面で、それが人生だとする人も多い。
■ しかし、・・・
■ まあ、いいか。
■ ・・・
■ 小林秀雄は、
芭蕉は、弟子の木節に「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答へたさうである。・・・純粋な芭蕉の鑑識が光ってゐる様に感じられ、・・・
僕らは西行と実朝をまるで違った歌人の様に考え勝ちだが、実は非常によく似た所のある誌魂なのである。
■ このように、書いている。
■ その芭蕉の鑑識を自分なりに考えだのだろう、けれど、どうか、・・・
■ 芭蕉がどのように鑑賞しようと、奥の細道に見られるような、芭蕉の在り方に、俳諧師的なにおいが感じられて必ずしも、肯定したくない部分がある。

2024年4月9日火曜日

リービ英雄、と、江藤淳



■ 2024-04-09
■ 夜、3時ごろ目が覚めて、ブラインドから外を覗くと雨だった。
■ で、ちょっと、江藤淳、について何か書いた記憶があり、ブログ内検索すると
■ こんな頁があった。
■ この頁にリンクしていた人の名の所をクリックすると、
検索条件と十分に一致する結果が見つかりません
■ となる。
■ おかしいな、「すべて」で検索すると出てくる。
■ そして、「画像」を選択すると、出てくる。
■ まあ、変な現象だ。
■ それで、もう一度、Helene Hanff をコピー・ペーストして検索すると出てくる。
■ よく分からん。
■ まあ、いい。
■ 先日、ついでに買ったリービ英雄の本、まだ、最後まで読み終わってないのだが、比較するといい。
  1. 江藤淳・アメリカと私・講談社文庫
  2. リービ英雄・日本語の勝利、アイデンティティーズ・講談社文芸文庫
■ どちらもプリンストン大学が関連する。
■ 江藤淳・文庫本への序、1972-05-17、を書き写してみる。
早いもので、プリンストンに留学してすらすでに十年、「アメリカと私」を書いてから八年の歳月が経過しようとしている。このあいだにアメリカはずいぶん変わったが、アメリカが私に教えてくれた「お前はどこから来て、何をしようとしているのか?」という自問はますます深く心に喰い入りつつある。あるいはアメリカも、変わりつつもまた根本では変わらずにいるのかもしれない。そして、いつの日か、アメリカの汚辱と混乱から堂々と立ち直ってみせるのかもしれない。
・・・
■ リービ英雄・カバーの紹介文にを見ると
小説家。アメリカ合衆国カリフォルニア生まれ。少年時代を台湾、香港で過ごす。プリンストン大学とスタンフォード大学で日本文学の教鞭を執り、「万葉集」の英訳により全国図書賞を受賞。1989年から日本に定住。
・・・、法政大学名誉教授
■ アイデンティイーズ・Ⅱ
ニューヨークーーもう一つの島国 1995-03
ワシントンの少年ーークリントンを追う 1993-04
・・・
■ ここまで読んだ。
■ ビル・クリントン、と、ヒラリー・クリントンの現在での評価は「アメリカの汚辱」そのもののだったようだが、リービ英雄の捉え方は、何か、それでいいのかね、という感じがした。今また、アメリカ大統領選が近づいている。「汚辱と混乱から堂々と立ち直ってみせる」のか
■ それとも、「根本では変わらずにいるのかもしれない」のか。
■ そして、日本も、また、同様のことがいえるのかもしれない。