■ ついでに、・・・↓
■ 情報源とは何か、について、↓
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■ 2024-03-22
■ 昨日は、↑、こんな場面の続きを期待しながら、待ち時間にちょっと話をした。
■ 一人は、最近配偶者をがんで亡くし、こうして毎日鳥見をして外で体を動かしているので、落ち込まないでいられる、というようなコトだった。
■ もう一人の人は、ノートパソコンでなく51インチの android TV に簡単に接続できるので大きな画面で撮った写真を見ている、と。
■ 私のうちにはTVはないので、話が合わないところもある。
■ 彼らは新聞の定期購読はしてないようだった。
■ 新聞とインターネットの話は、いろいろ面白いだろうけれど、興味の対象が異なると会話にならないかもしれない。
■ それは、まあいい。
■ インターネットのニュース?は雑多で、他のコトの忙しさもあり、時間がない。
■ 昨日は木曜日だった。
■ 新聞の構成は色々あり、曜日によって、違う構成にもなるので、ざっと目を通すだけの日もあれば、読む場合もある。
■ 夕刊には「あすへの話題」欄があり、木曜は、今のところ哲学者が書いており
- 「反出生主義への共感」この世に生れてくることに意味はあるのかという究極の哲学的問題が問われているのである。
■ と、まだ続いている。
■ これが「究極の哲学的問題」ではないと思う。
■ なぜ、「この世に生れてくることに意味はあるのか」を問題として問うコトの背景こそが問題であろう。
■ 設定が問題なのだ。
■ この文章を書くために、切り抜きをした。
■ すると、その切り抜いた後の窓から見えたのは、「アリサ・トルー」という名前と写真、↑、のある記事だった。
■ 偶然、その記事が目についた。
■ 偶然性がオモシロイ。
■ と小見出しがある。
■ 私の場合、スポーツにはあまり興味がないので、スポーツ欄を読むことはない。
■ 偶然が作用した。
■ 生れてくることに意味があるのか、ではなく、自分が「ひたむき」になれることはあるのか、という設定こそが哲学的問題だと思う。
■ 長い歴史の中で、そして広い世界の中で自分が接することのできる人は限られている。
■ しかし、数えきれないほどの本がある。
■ つまり、少なくとも、それだけの人生があるのだ。
■ あるいは、そこに自分が目標として設定できるものを見出すこともできるかもしれない。
■ かもしれない、ではなく、そこにある、と思う。
■ あるかどうか、自分で確かめることに意味があるだろう。
■ そして、もう一つの重要なコトは、書を捨てて街へ出よう、と併せるコトことだろう。
■ いわば、哲学の小道を歩き、体を動かし外の景色に眼を向けることなのだ。
■ 最近配偶者をがんで亡くした人の在り方は、ひとつの具体的な例でもある、と思う。
■ そして、今私がここに書いているように、その時々の考えを google の blogger などを使い記録することだと思う。
■ 日々、記録を残すことで、振り返ってみたとき、軌道修正も見いだせるというものだ。
■ いつも、今日、がある。
■ 生きるとは、昨日ではない、今日、があることに気付くことだ。