2025年4月25日金曜日

高村薫・墳墓記、と、万葉集 第6巻 935番の歌、百人一首、2025-04-26


■ 2025-04-21
■ 今日の日本経済新聞・夕刊に高村薫の記事が出ていた。
■ 2025-04-25
■ 墳墓記を刊行「4年ほど前、一寸先も見えない状況でのスタートでした。ただ、藤原定家の日記に天武天皇の墓が盗掘にあったとの記述があり、定家は古代に興味がないと聞いていたので、おおっと思った。当然、万葉集に載る天武の歌も知っているはず、といったところから始めた」
■ こんな記述があった。
■ 「一寸先も見えない状況」だと言っても、百人一首の存在も知らなかったのだろうか。
天智天皇
持統天皇
柿本人麻呂
山部赤人
大伴家持
■ こうした人の名前も知らなかったのだろうか。
■ 天智天皇は天武天皇の兄であり、持統天皇は天武天皇の妻であるので、定家が「当然、万葉集に載る天武の歌も知っているはず」とする感覚が異常だ。
■ 文字情報のあふれる現代で万葉集を知らない人はていも、藤原定家の時代、彼以前の文字の歴史としては万葉集はいわば必須であったと思われる。
■ それしかないのだ。
■ 紫式部でさえ、という言い方はよくないが、紫式部は日本書紀も読んでいた。
■ まして、定家が万葉集を知らないはずはない。
■ そして、藤原定家の歌は、笠金村の歌を下敷きにして作られていることも知らなかったのだろうか
万葉集 第6巻 935番の歌
名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松<帆>乃浦尓 朝名藝尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍 海末通女 有跡者雖聞 見尓将去 餘四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳徊 吾者衣戀流 船梶雄名三
■ 知らないことが悪いわけではない。
■ 「定家は古代に興味がないと聞いていたので、おおっと思った」という彼女の発言にかなり違和感を感じた。
■ また、「定家の日記」から入ろうとすることに何か、裏道・迷い道のような気がした。
■ 主人公の設定が「能楽師の家に生まれ」とするところに室町時代の評価を元に語ろうとしているのだろうか。いわば偏見ではないか。
■ 「この世界で言語化できないものを鬼と名付ける。私は今作を書いていて、日本語を拡張したいという思いがありました」としている。
■ 要するに、「日本語を拡張」することで「言語化」し「鬼」をなくせる、とい考え方か。
■ しかし、昔を知らなかったので、というか、忘れたので、というか、捨て去って返りみようとしなかったので、現在萎縮?しているだけで、拡張しようということではなく、ただ、昔の言葉の中に存在している心を再発見するということだろう。「鬼」とする意識とは何か、ということではあるが、「鬼」という言葉自体、人の想像の世界にあるものに過ぎない。
■ 新聞記事から、こうした先入観を持ってしまった。
■ 彼女の長編を読み通すことができるかどうか、一応、買ってみようかと思う。
■ 何も読まずに勝手なことを書くのもよくないと思い、南千里まで行き、この本ともう一冊を買った。
■ ざっと読んでの感想をとりあえず書いておこう。
■ 墳墓記の最後にこんな記述がある。
■ 多少長くなるが、・・・
■ 引用する前に、ちょっと google した。
吹きはらふ紅葉のうへの霧はれて峯たしかなるあらし山かな  定家

■ さて、・・・

男はいま、長年想像していたよりはるかに曖昧な心地とともにこの結果を迎えている。何もなさず何の役にも立たない長い彷徨の果てに転がっていたものを、今はもう、あえて言い当てることもない。たぶん何であれ十分に生きたあとでは、ひとまずすべての荷を下ろして空っぽになるのが望ましく思えるということだろう。

かの歌詠みも後年は技巧を離れた。思えば、生々しい言葉の力に満ちた万葉の歌にはついに届かず、もはや古今・新古今にもそれほどこころが動かなくなった老いの果てに、言葉で満杯にもなった己の人生を、ひとまず空っぽにしたい衝動にかられたこともあったことだろう。

男はひとつ呼吸をする。長い間見ていなかった、くっきりした気持ちのよい眺望が目の前いっぱいに開けてゆく。もう言葉はいらない。ふきはらふもみぢのうへの霧はれて峯たしかなる嵐山哉

貞永元年(1232)四月作か?
和歌データベース 拾遺愚草_定家
藤原定家年譜

■ 「かの歌詠み」は藤原定家とみられるが、・・・
■ 定家は45歳以降はほとんど歌を詠まなくなった。死んだのは81歳だった。 

1162年 定家誕生
1207年 45歳
1210年 新古今和歌集
1235年 百人一首 原型
1239年 後鳥羽院死亡
1241年 藤原定家死亡

■ 計算すると年齢が一致しないので、この年表は正確ではないが、ざっとこんな感じか。
■ 墳墓記の作中、「男が」どのように思ったとしても、定家と関係があるとは言えない。勝手に思っているだけだ。作者の考え方、というか、高村薫自身の、彼女の人生に過ぎない。
■ ・・・
万葉集の時代
古今集~新古今集の時代
能の時代
今、昭和から令和の時代 
■ 「能」の時代の解釈に引き込まれてしまった感じがする。
■ 定家はあくまで「生」に生きていた。武士の時代を経た「能」の「死」の世界、世界観とか、人の意識は異なっていたととらえた方がいいだろう。
■ 「もはや古今・新古今にもそれほどこころが動かなくなった老いの果てに」定家は百人一首を編集したのか、そうではあるまい。
■ 新古今和歌集は下働きであったので、自分のものとして百人一首を作り上げたと、思われる。
■「もう言葉はいらない」ではないだろう。
■ 老いてなお、歌への、あるいは、自分の存在の主張、自分への執着があったように考えた方がよいだろう。
■ 高村薫は、この続編を、別の視点から、つまり、主人公を変えて、書かねばならぬ事態に陥ったのではないか、作家として、落とし前をつけなければならない感じがする。
■ これでは済まされない。



2025年4月21日月曜日

百人秀歌から百人一首を眺める メモ

  1. みやこまで さんりのみちの ゆきかえり いずこもおなじ あきのゆうぐれ  遊水
  2. 寂しさは 誰でも同じ 秋の暮 知る人もなき 雑踏の中  遊水
  3. にぎわいの 梅田の街に ふらり出て 疲れて帰る 秋の夕暮  遊水


世中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平
よのなかに たえて戦の なかりせば ひとのこころは のどけからまし  遊水


■ 先日、覚賀鳥、というのがあったので、一応、線を引いておいた。
■ 古事記にもいろいろ鳥が出てくる。日本書紀にも出てくる。
■ 例えば、仁徳天皇のところに、オオタカも出てくる。
百済では倶知という。
脚に革ひもをつけ
尾に小鈴をつける
今の鷹だ
■ このように「今の鷹だ」即ち奈良時代には鷹だと知られていた、との説明があればなるほど、と思う。
■ オオタカは、万葉集にも何度も出てくる。
■ 大伴家持も鷹を飼っていて、歌を詠んでいる。
■ 鷹を飼う神経の細やかさが大友家持にあったことも分かる。
■ 鷹については以前あちこちに書いた。

狩るモノ、と、狩られるモノ、Shakespeareより昔の話  
放鷹術  
二条城・放鷹術 (fc2.com)

■ 写真も撮っているし、動画も撮っている。
■ 現在でも鈴をつけていることも分かる。
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オオタカ 夏の光  オオタカ 秋の色


■ さて、覚賀鳥、はどこに書かれていたのか、ちょっと手間取った。
■ 景行天皇の所に出てきた。
■ 景行天皇というと、倭建命の親だ。
■ 「小碓王・日本武尊の平定した国々を巡行したい」というあたりに出てくる。
■ 注には、ミサゴ、とある。



■ 源氏物語の花散里は短くて5分から10分程度で読める分量だ。↑
■ 和歌は4つ詠みこまれている。
■ うち、二つは、

橘の香をなっかしみホトトギス花散る里を訪ねてぞとふ  光源氏
人目なく荒れたる宿は橘の花こその木のつまとなりけれ  麗景殿女御

■ 与謝野晶子はこの話の前に

橘の恋のうれひも散りかへば香をなつかしみほととぎす鳴く  晶子

■ と、詠んでいる。
■ 古今和歌集・139には、・・・
  • さつきまつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする  よみびとしらず


■ 2024-07-10
■ 源氏物語ではたくさん人が死ぬ。
■ 当時の平均寿命はどうだか知らないが、とにかく死ぬ。
■ 源氏物語は物語なので、その死は作者の価値判断によると考えてよい。
■ 作者はなぜ死なせるのか、このような視点から読んでみるのもよいかと思う。
正邪
善悪
■ 源氏物語は光源氏が主人公の物語だから、光源氏に関係する人が死ぬ。
■ 必ずしも、死んだ者が悪いということではない。
■ では、作者の価値判断は誰に対してなされるのか、これは明らかで
■ 光源氏の行為に対する判断だ。
■ 作者が殺すのは、光源氏の行為がよくないので相手を彼の前から除くということだと考えられる。
■ 作者は光源氏を必ずしも好ましい人間だとは見ていない。
■ 最後には、光源氏が一番大切に思い育てた女性を死なせている。
■ 彼の生き方を否定している。
■ 物語は、全くの架空のモノではなく、作者の生きた社会での出来事を語っている。
■ 物語を、光源氏から見た女性ではなく、女性である作者側から見た男が描かれている。
■ 物語として書き綴りながら、現実の男社会を描いている。
■ ・・・
■ 最初の「桐壺」の最後の部分を与謝野晶子訳でみると、
  • 光の君という名は前に鴻臚館へ来た高麗人が、源氏の美貌と天才をほめてつけた名だとそのころ言われたそうである。
■ とある。そういうことで、人々の興味を引いたのだが、
  1. 美貌
  2. 天才
■ これだけが人間を評価する基準になるものではない。
■ 例えば、
  1. 思いやり
  2. 寛容さ

■ 立派な人かどうかは、もっと他の要素があると思われる。
■ むしろ、美貌や天才以外の人間性の方が重要なことは古今変わるものではない。
■ 表面的な評判・誉め言葉は現実のモデル的に考えられる人への取り繕いと考えた方がよい。
■ 怒りや妨害を避けるためだ。



■ 2024-09-21
■ 先に、
■ こんな頁を書いた。
■ 宮内卿の歌だ。
■ 田淵句美子・百人一首・岩波新書に、「宮内卿の歌がないのはやはり残念に感じる」とある。
■ では、どんな歌を取り上げたらいいのか、
■ 丸谷才一は新々百人一首で次の歌を取り上げ、かなり意欲的に解説している。

片枝さすをふの浦梨初秋になりもならずも風ぞ見にしむ  宮内卿
をふの浦に片枝さしおほひなる梨のなりもならずも寝て語らわん  詠み人知らず

■ 散歩道に桜の木がある。
■ 時々写真を撮っている。
■ 今は9月だから花はない。

緑なす 片枝桜 写しつつ 宮内卿なる 片枝の梨   遊水

■ 枝は太陽の方に向いて伸びる。
■ どこから見るかにより違った樹に見える。
■ 花がない時期の方が枝の形がよく分かる。



  • これやこのゆくも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関   後撰集・雑一1089





■ 2024-10-19
■ 塚本邦雄が選んだ、式子内親王の歌は私も取り上げていたので、仲間がいたという、感じがした。
■ 試みに、google翻訳すると、・・・


■ なるほど、これなら英語圏の人にも通じるかもしれない。
■ 今から約850年前の女性の恋の歌の心は今でもよく分かるのではないだろうか。
  • 帰りこぬ昔を今とおもひ寝の夢の枕ににほふ橘   式子内親王
■ 今に、ではなく、今と、だったが、意味的には同じことだ。




■ 2024-10-23
■ 塚本邦雄は新撰小倉百人一首で定家の歌としてこの歌を上げている。
  • 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮  權中納言定家
■ なぜ、これにしたのか、よくわからない。
■ 白洲正子・私の百人一首、には、87寂連法師の頁に、いわゆる三夕が記されている。
■ 新古今和歌集の、361、362、363、の歌だ

さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮れ    寂連
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つさわの秋の夕暮れ    西行
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮       定家

■ そして、・・・

同じ新古今の調べでも、西行だけが孤独で、自分自身の「秋の夕暮れ」を見つめていることに注意していい。

■ と書いている。
■ 要するに、白洲正子は、このみっつの中では西行の歌を評価している。
■ 百人一首に次の「秋の夕暮」の歌がある。

村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ     寂連
淋しさに宿を立ちいでてながむればいずくも同じ秋の夕暮れ   良暹法師

■ 寂連の「秋の夕暮」の歌として、定家はこっちの方を取り上げた。
■ 白洲正子は、良暹法師に関しては・・・

特にこの歌をえらんだ頃は、新古今の調べも定着し、その先駆けをなす秀歌として賞翫されたのであろう。

■ としている。
■ 塚本が百人一首は凡作ばかりだとするのは、まあ、勝手といえば勝手だが、
■ 来ぬ人を、を置き換えてしまうと、なんの百人一首か分からない。
■ それに、定家の、花も紅葉もなかりけり、とする景色が秋の夕暮れなのだろうか、と思う。

見渡せば
花も紅葉もなかりけり 
浦の苫屋の
秋の夕暮

■ 自分が住んでいるわけでもない、漁師の住まいを遠くから見て、歌にしている。
■ 自分の「秋の夕暮」ではなく、寂連の「色としもなかりけり」を言い換えてみただけの歌で、いわば凡作だ。
■ それをなぜ塚本は定家の代表作のように「来ぬ人を」からこの歌に替えたのか。
■ 分からん。
■ ・・・
■ 芭蕉は、秋深き隣は何をする人ぞ、とした。
■ 会津八一は

かすがのに おしててるつきの ほがらかに あきのゆうべと なりにけるかも  八一

■ 今、百人一首から離れて、どんな秋の夕暮れを詠めばいいのだろうか、・・・

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にぎわいの 梅田の街に ふらり出て 疲れて帰る 秋の夕暮  遊水


■ 「空しく帰る」より「疲れて帰る」でいいか、とした。



■ 2024-10-26
■ 行きがかり上、塚本邦雄の新小倉百人一首を見てみようか、ということなった。
藤原定家・小倉百人一首
時実新子・恋歌ノート
塚本邦雄・新小倉百人一首
■ 2」の解題の最後に塚本の歌がある。
■ これは、恋の歌として、彼の代表作なのかもしれない。
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ  塚本邦雄
■ この歌の他は、と、一応、高野公彦編・現代の短歌・講談社学術文庫、をひらいてみた。
■ 私の短歌とは、ほとんど相いれない。
■ 頭で作ったという感じで、おおげさだ。
■ 「人あやむるこころ」などとしなくてもいいだろう。
■ 例えば、


よのなかの ふたりにひとり おみないて むねのふくらみ はだのぬくもり  遊水
■ こんな感じの、普通でいいのではないか、という気もする。




百人一首、と、秀歌

■ 2024-10-18
■ 塚本邦雄は定家の選んだ歌が作者の代表作ではないとして選び直した。
■ 百首すべてについて比較する前に、
■ 「公任」「定頼」親子の間の歌を取り上げてみよう。
  1. 藤原定家 小倉・百人一首
  2. 塚本邦雄 新撰小倉百人一首
  3. 藤原定家 百人秀歌

■ 新撰小倉百人一首

55 秋深き汀の菊のうつろへば波の花さへ色まさりけり         大納言公任
・・・
56 秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ    和泉式部
57 おぼつかなそれかあらぬか明暗のそらおぼれする朝顔の花      紫式部
58 はるかなるもろこしまでも行くものは秋の寢覺の心なりけり     大貳三位
59 有明の月は袂に流れつつかなしき頃の蟲の聲かな          赤染衞門
60 春の來ぬところはなきを白川のわたりにのみや花は咲くらむ     小式部内侍
61 おきあかし見つつながむる萩の上の露吹き亂る秋の夜の風      伊勢大輔
62 花もみな繁き梢になりにけりなどかわが身のなる方もなき      清少納言
・・・
63 榊葉の木綿しでかげのそのかみにおしかへしてもわたる頃かな    左京大夫道雅
64 梢には殘りもあらじ神無月なべて降りつる夜半のくれなゐ      權中納言定頼




■ 百人秀歌

59 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほとまりけれ   大納言公任
・・・
60 夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ    清少納言
61 あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな  和泉式部
62 有馬山猪名のささ原風吹けばいでそよ人を忘れやはする      大弐三位
63 やすらはで寝なましものをさ夜更けて傾くまでの月を見しかな   赤染衛門
64 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな  紫式部
65 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな      伊勢大輔
66 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立       小式部内侍
・・・
67 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木    權中納言定頼

■ 定家の時代に、女性作家の誰が知られていたのか。
■ 定家が再評価することにより、名前だけでなく、具体的に歌として世に現れた歌もあるかと思う。
・・・
■ 定家は塚本が取り上げた和泉式部の歌は評価していた。
■ しかし、「身にしむ色の秋風」と、自分も歌にしているので取り上げなかった。

吹き来れば身にもしみける秋風を色なき物と思ひけるかな        読人しらず
秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ      和泉式部
しろたへの袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞ吹く        藤原定家

■ 塚本選の歌は単独で見れば、それはそれとして悪くはないだろうが、・・・
■ 他の作者との関係性を考慮すれば、定家選の方が物語性があり、親しみやすい。
■ 例えば、親子関係もある。
■ 次々歌い継いでゆく百首が構成する物語性だ。
■ 個々の歌はそれぞれ独立しているけれど、歌の中にある「言葉」が何か連想させる効果がある。
■ どのように連想するかは読み手の問題ではあるが、定家が考えたコトを推測するのもおもしろい。






 (006) 中納言家持 大伴家持 新古今集
005 かさゝきのわたせるはしにおくしもの しろきをみれはよそふけにける


■ 大伴家持の歌を幾つか拾ってみた。
  • 振り放さけて三日月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも(6-994)
  • 世間は数なきものか春花の散りのまがひに死ぬべき思へば(17-3963)30歳
  • 春の苑紅にほふ桃の花したでる道に出で立つ乙女(19-4139)
  • 物部の八十乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子の花(19-4143)
  • 石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて小鷹狩だにせずや別れむ(19-4249)
  • 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鶯鳴くも(19-4290)
  • 我が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも(19-4291)
  • うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しも独りし思へば(19-4292) 36歳 753-02-25
  • 新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや頻け吉事 (20-4546) 42歳、最終歌
■ 大友旅人
  • 験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし(3-338)
  • 生まるれば遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(3-349
■ 年齢にもよるだろうが、
■  大友家持は父旅人と比較し線が細い感じだ。
■ 優しさがある。
■ それゆえか、貶められ不遇だった、とするのは適当とは思えないけれど、
■ 大友一族は当時の政争に巻き込まれたという感じか。
■ 家持は、武人で桓武天皇の延暦元年に、東宮太夫兼、陸奥按察使鎮西将軍として赴いた。
■ 同3年に中納言になり、同4年に亡くなっている。68歳 785-08-xx

■ ついでながら、薨ずる、とか「みまかる」という語がパソコンでは変換されなかった。
■ 家持は鷹を飼っていて、万葉集にも幾つか歌がある。
■ 小鷹狩りの小鷹は大鷹の雄で、雌より小柄で鶉などを対象にした。
■ さて、
  • かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける(新古620)  
■ 「鵲のわたせる橋」を現実の「宮中の御橋」とするようだが、
■ 宮中のことなど知らないことだし、大伴家持の心を推測することではなく、
■ 鵲の橋は、仰ぎ見る天の川として捉えたい。
  • あまのかわ ふりさけみれば かささぎの はしとわたして よはふけにける  // 遊水
■ 霜ということばから、
  • 月落烏啼霜満天
■ こんな漢詩も思い浮かべた。
■ カササギはカラスの一種で、ユーラシア大陸+北アメリカに広く生息する。
■ 水滸伝にも出てくる。喜鵲と言われ、縁起がいいので
  • 月落鵲啼霜満天
■ この方がよさそうにも思うが、どうかな、




■ 定家としては、人麻呂の歌とあわせて
  • 独り寝る・夜ぞ深けにける
■ と続けたかったのかもしれない。
■ 家持の歌としては別の歌を取り上げたい。

38代 天智天皇
39   弘文天皇
40  天武天皇
41  持統天皇
42  文武天皇
43   元明天皇
44   元正天皇
45  聖武天皇

■ 人は親を選ぶことも、時代を選ぶこともできない。
■ 社会とどうかかわるかは、その人の資質とか意欲などによるが、一人でコトをなすことは一般にはむずかしい。
■ 倭建命が九州・熊襲の征伐後、東の国に派遣され、古事記などでは討伐したように書かれているが、伊吹山で死んでいる。
■ のちの征東将軍や征夷大将軍という名称は関東・東北の勢力圏の存在を意味している。
■ 大伴家持は持節征東将軍時に陸奥国で没した。
■ 不安定な時代の政争に巻き込まれ、社会的には不遇であったといえる。
■ 武人であったので、越中、九州、陸奥、などに行かされている。
■ 大伴家持には鷹の歌がある。

矢型尾の真白の鷹をやどに据ゑ掻き撫で見つつ飼うはくしよしも  大伴家持
験なき物を思わず一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし  大伴旅人
人の世にたのしみ多し然れども 酒なしにしてなにのたのしみ  若山牧水

■ 酒飲みの父・旅人と違い、鷹をよく知るような、繊細な持ち主だったと言える。
■ いつの世も、時代背景があり、人がいる。
■ しかし、地球は自転・公転し時は移ってゆく、めぐりくる四季の移ろいの中、自然を感じる感性があった。

和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敝可母
我がやどのい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも  家持

■ 次の歌もいい。
 
宇良宇良尒照流春日尒比婆理安我里情悲毛比登里志於母倍婆
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独りし思へば
うららかな みそらにひばり なきのぼる そのうたかなし ひとりしおもえば 遊水

■ こうした歌の記録があることに今との共通性を感じ、・・・

うららかな みそらにひばり

■ と、昭和の歌手の名前、美空ひばり、を詠みこんでみた。
  • いにしえの うたよみおれば おもわるる ときはうつれど ひとはかわらず  遊水
■ 武人の大伴家持は陸奥にも行っている。
■ 「東の国の、陸奥の、小谷ある山に、金ありと、・・・」
  • 天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く  家持
■ こんな歌を作っている。
■ 松尾芭蕉は、平泉に行く前に「金花咲く」と金華山と間違えて奥の細道に書いているが家持の歌は知っていた。
■ 当時、聖武天皇のころ金が産出し、奈良の大仏にも使われたようだ。
■ 江戸時代、松尾芭蕉の頃には光堂も朽ち果てて、鞘堂に収められていた。
  • 五月雨の降り残してや光堂
■ これは、奥の細道の清書を託した、国文学者の素龍作と言われていて、自筆にはこの句はなく別の句で、清書したものを手にする前に死んでいる。
■ 横道にそれたが、「陸奥のしのぶもじずり」の歌を書いた人は、陸奥との関係があったものと思われる。
■ 西行が行ったのも「金・きん」が目当てだった。
■ さて、「かささぎの わたせるはしに」の歌を家持は、宮中の橋を見て詠んだのだろうが、定家は、天の川の伝説を想像、意識して、自らも相手に会えないので、取り上げたものと、いかにも低次元だが、その程度とも考えられる。

 



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■ 2025-04-14