2024年10月24日木曜日

にぎわいの 梅田の街に ふらり出て 疲れて帰る 秋の夕暮  遊水  2024-10-26 追記

新撰小倉百人一首(塚本邦雄)

■ 2024-10-23
■ 塚本邦雄は新撰小倉百人一首で定家の歌としてこの歌を上げている。
  • 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮  權中納言定家
■ なぜ、これにしたのか、よくわからない。
■ 白洲正子・私の百人一首、には、87寂連法師の頁に、いわゆる三夕が記されている。
■ 新古今和歌集の、361、362、363、の歌だ

さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮れ    寂連
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つさわの秋の夕暮れ    西行
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮       定家

■ そして、・・・

同じ新古今の調べでも、西行だけが孤独で、自分自身の「秋の夕暮れ」を見つめていることに注意していい。

■ と書いている。
■ 要するに、白洲正子は、このみっつの中では西行の歌を評価している。
■ 百人一首に次の「秋の夕暮」の歌がある。

村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ     寂連
淋しさに宿を立ちいでてながむればいずくも同じ秋の夕暮れ   良暹法師

■ 寂連の「秋の夕暮」の歌として、定家はこっちの方を取り上げた。
■ 白洲正子は、良暹法師に関しては・・・

特にこの歌をえらんだ頃は、新古今の調べも定着し、その先駆けをなす秀歌として賞翫されたのであろう。

■ としている。
■ 塚本が百人一首は凡作ばかりだとするのは、まあ、勝手といえば勝手だが、
■ 来ぬ人を、を置き換えてしまうと、なんの百人一首か分からない。
■ それに、定家の、花も紅葉もなかりけり、とする景色が秋の夕暮れなのだろうか、と思う。

見渡せば
花も紅葉もなかりけり 
浦の苫屋の
秋の夕暮

■ 自分が住んでいるわけでもない、漁師の住まいを遠くから見て、歌にしている。
■ 自分の「秋の夕暮」ではなく、寂連の「色としもなかりけり」を言い換えてみただけの歌で、いわば凡作だ。
■ それをなぜ塚本は定家の代表作のように「来ぬ人を」からこの歌に替えたのか。
■ 分からん。
■ ・・・
■ 芭蕉は、秋深き隣は何をする人ぞ、とした。
■ 会津八一は

かすがのに おしててるつきの ほがらかに あきのゆうべと なりにけるかも  八一

■ 今、百人一首から離れて、どんな秋の夕暮れを詠めばいいのだろうか、・・・

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にぎわいの 梅田の街に ふらり出て 疲れて帰る 秋の夕暮  遊水


■ 「空しく帰る」より「疲れて帰る」でいいか、とした。


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