2024年6月7日金曜日

紫式部の「知性」あるいは「知」と「性」



■ 2024-06-06
■ 与謝野晶子・源氏物語・上、しか手元にないので、中、下、もあった方がいいなと思う。
■ 「上」を開いて見ると、桐壺、の頁の余白に短歌を鉛筆で書いていた。
  • みかどなる 位の人の 相なれど しあわせとおき みちにありけれ  遊水 6/17
■ 高麗人の人相見に占わせたことが書いてあったので、こうした短歌を作っていた。
■ 物語だから、主人公として魅力ある者にしなければならなかっただろうが、
■ ホンマに光り輝くようなような人ではなく、チャラチャラ系だ。
■ 批判的に書いている。

■ 2024-06-07
■ いろいろ書き散らした。
■ どんなことを書いているのかブログ内検索しておこう。


■ さて、紫式部集・岩波文庫・補遺に次ぎの歌がある。

(三)
源氏の物語御前にあるを、殿の御覧じて、例の、すずろごとども出で来たるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる
  • すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
(四)
とて、賜はせたれば
  • 人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものぞとは くちならしけむ
■ このように「源氏の物語」に触れているので、紫式部集にある現実の歌を、物語の構想時点で、どのように取り入れたかを考えるのも面白そうだ。
■ 例えば、小倉百人一首にある紫式部の歌が最初にあるが、
  • めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影
■ 桐壺更衣に重ね合わせ、雲隠れ、即ち、亡くなった、とするなどしているのかな、などと。
■ 紫式部は「知性」あふれる人だが、当時の社会に、例えば、政治の世界では受け入れられない「女性」であったことが、男性である「光る源氏」の生きざまを表面的には光り輝く存在として描きながら、根本的には否定的に、というか宗教的救いを求める姿として捉えている。
■ ・・・
■ また、「人にまだ 折られぬものを」から、例えば、佐藤春夫・車塵集・「ただ若き日を惜しめ」の歌を連想され、私も以前こんな句にしていた。
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ためらわず 手折れよ花の 咲き初めに

  金縷衣 杜秋娘
勧君莫惜金縷衣 勧君須惜少年時
花開堪折直須折 莫待無花空折枝

■ 男の側からではなく、女の側からの誘いだ。
■ 紫式部は、女から見た世の中を描き、人の価値観を問いなおしている。
■ そのうち、続きを書こう。
  • 010 
  • 年暮れて わがよふけゆく 風の音に 心のうちの すさまじきかな  紫式部
■ 紫式部は小野小町より100年ほど後の人だが、小野小町と同様な知性が感じられる。
■ 比較してみるといい。
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  • 057 紫式部は010に取り上げた
■ 紫式部、となると、源氏物語だが、あまりにも大き過ぎて困る。
■ 多くの人がかかわり、研究もしているし、現代語訳もいくつかある。
■ 短歌との関係で言えば、歌人である与謝野晶子・全訳源氏物語を上げるのがよいように思う。
■ それぞれの話の前に晶子の歌が添えられている。
■ 例えば、「朝顔」では
  • みずからは あるかなきかの あさがほと 言いなす人の 忘られぬかな  昌子
■ 源氏物語にはたくさんの和歌がある。
■ 折口信夫は紫式部の作歌能力は、哀れなほど低い、といったそうだが、・・・
■ 例えば、最初の桐壺のところで、・・・
  • 限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり
■ とある。
■ 物語としては効果があるのではないかと思う。
■ 散文ばかりでなく、和歌にすると、印象が引き締められるのではないだろうか。
■ 極端に言えば、
■ 源氏物語は、ただ和歌の部分を取り上げ、与謝野晶子の歌を並び置き、それに対して、自分なりに歌を付加するのがいいのではないかと思われる。2024-01-25


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