■ 小倉百人一首、に興味を持って何度も読んでいる。
■ 動画も聞いている。
■ 何度も読んで、定家はなぜ、百人一首の形にしてしまったのか、と疑問をもつ。
■ 百人秀歌の方が流れとして、一貫性があり、すっきりしている。
■ いわば、彼の恋の歌に関する思いというか、彼の歌が最後に生きる。
■ そして、それが一番だとして、誰も認めたことだろう。
■ 百人一首の99、100は取り上げなくてよかった。
■ どこかに、何かの迷いが出たのかもしれない。
■ 百人一首の最後の方の歌の流れがないように感じる。
■ 2つの歌を入れるにしても、もう一度、並べ替えるべきだっただろう。
■ 例えば、秀歌の最後の5首を取り上げてみよう。
- みよし野の山の秋風小夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり
- 世の中は常にもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも
- 風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける
- 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ
- 花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆくものは我が身なりけり
■ 実朝の歌も生きる。
■ 最後の「ふりゆくものは我が身なりけり」で終わるのも分かりやすい。
■ これにすることで、3首目の
- あしひきの山どりの尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかもねむ
■ ・・・からのつながりが明確になる。
■ しかし、いまとなっては、どうにも仕方ない。
■ 私としては、百人秀歌の方で彼の歌に関する思いを辿りたいと思う。
■ 近くにある本には、二つがある本が、何冊かある。
■ やっぱり、と思えば百人一首に戻ればいいのだから。
英語に「ッ」はない 日本語緊張英語学習勉強Rio Koike Japanese comedian ニューヨーク日本人スタンダップコメディアン小池良介英会話ポケトーク (youtube.com) この人の以前見たことがある。英語の勉強、とかで動画検索すると出て来るのかもしれない。知らんけど。
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