2024年5月21日火曜日

ROADSTER 赤は売れたか白と黒、と、紫陽花

■ 前を通ると、赤がないのに気づいた。
■ 車には全く興味はないが、ROADSTER 赤は売れたか白と黒。

■ 2024-05-21
■ 今日は LUMIX G8 + 100-300 mm で外に出た。

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夏の風 今日は 昨日と違う道

2024-05-21  吹田市


2024-05-21  吹田市・菩提池


2024-05-21  吹田市


2024-05-21  吹田市

うたたねの どこかでだれか ささやける  遊水


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■ 2024-05-21
■ 和歌、短歌には題詠というものがある。
■ 俳句でも兼題、席題、をする。
■ 席題、は苦手だった。
■ しかし、題詠は、あってもいいか、と思う。
■ 先日、久保田万太郎の句集を読んでいて、題詠を二つした。
  1. 人の名
  2. 古典
  • 春がすみ團十郎といふ名かな  万太郎、市川海老蔵、十一代目團十郎を襲名
  • 年賀状、律子と書いてリッシかな  遊水
■ ちょっと團十郎を google してみた。今は13代目のようだ。
■ 襲名、というのは、芸事の世界で、落語などでも見られる。
■ 家元、などというのもあるが、これはひとつのアイデンティティーだ。
■ 先代の芸を引き継ぐなどとして、権威?の笠を被るわけだ。
■ 英語でも Jr. などそれだ。
  • 春待つや萬葉、古今、新古今  万太郎
  • いにしえの 奈良のみやこや 百人首  遊水
■ こうした遊びは嫌いじゃない。面白い。
■ 話変わるが、この万太郎の句の後に、・・・
  • だれかどこかで何かさゝやけり春隣  万太郎
■ こんな句がある、何か気になる。
■ 自分だったら、と思う。
  • うたたねの どこかでだれか ささやける   遊水
■ ほかに、例えば、

塀について塀をまがれば秋の風  塀沿いに道を曲がれば秋の風
煮大根を煮かへす孤獨地獄なれ  大根を煮かえす孤独淋しけれ
鳥逃げし枝のさゆれや都市の暮  飛び移る枝のさゆれや年の暮

■ まあ、こんなふうに、自分だったら、と思いながら読むのもいいかもしれない。
■ 伝統をどう継続するか、日本人としてのアイデンティティーは
■ 例えば、百人一首の
  • かるたとり
■ ではないかと思う。
■ 宗教を信じるのは、自分の言葉を持てないからだ、と以前どこかに書いた。
■ 遊びとして「かるたとり」をすることで、自分の言葉ももてるようになる。
■ 日本人なら、575、や、57577、はごく基本的なものなのだ。

2024年5月20日月曜日

芭蕉は、木曽義仲は好きだったが、源義経は嫌いだった、のか。


■ 2024-05-20
■ 昨日の「日本語日記」・五郎とミサト、に、
 
どちらもフィクション作品の登場人物なので、作品を知らない人には分かりません。しかし知っている人であれば・・・人名のような固有名詞の引用は、作品を味わい深くする効果がありそうですね。

■ などとあるが、先にあげた万太郎の句の團十郎も、江藤淳のカフカの「城」にしても知らない。
■ だから、どうでもいい、ということになる。
■ 江藤淳は自己の同一性は批評家であるとして、夏目漱石や小林秀雄を取り上げている。
■ 小林秀雄は、考えるヒント・「批評」に、

批評とは人をほめる特殊の技術だ・・・
ある対象を批評するとは、それを正しく評価する事であり、・・・

■ なとどと書いている。
■ 例えば、松尾芭蕉は俳人ではなく、俳諧師であるが、・・・
■ 奥の細道、の

「国破れて山河あり。城春にして青々たり」と、笠打敷きて、時のうつるまで、なみだを落とし侍りぬ。
夏艸や兵共が夢の跡

■ 人は、これをどのように評価するか、とは取り上げないが、・・・
■ 兵共、を、つわものども、と読むならば、今の言葉の感覚からすれば、見下げた表現であり、何が「なみだを落とし侍りぬ」だ、恰好つけて、と、松尾芭蕉の人間性に疑いをもつ。
■ 芭蕉の人間性については、ここばかりでなく、奥の細道の随所にある。
■ 私がこうした感想をもつのは、批評家、とか、評論家ではなく、俳句の作者、短歌の作者の立場からの言葉遣いに関する感じ方からだ。
■ この場合、芭蕉の人間性というより、好き嫌いからくるのかもしれない。木曽義仲は好きだったが、源義経は嫌いだった、という観点から言葉遣いをみることができる。
■ 批評は、ほめる、ばかりではない。
■ いわば、通説をどう見るか、であろう。
■ もっとも、

三代の栄耀、一睡の中にして、・・・秀衡が跡は、・・・泰衡が旧跡は、・・・ゑぞをふせぐと見えたり。扨ても、義臣すぐつて此城に籠り、功名、一時の草村となる。

■ と、藤原三代にふれていて、義経のことを言っているわけではない。
■ しかし、「ゑぞをふせぐと見えたり」などとあるが、「ゑぞ」と戦ったわけではなく、滅ぼしたのは源頼朝の軍勢で、義経を許さんとする頼朝の意志からだった。
■ それはさておき、ひとつの句を作者から独立させてみるとき、その句のもつ本質的な意味がわかる。
■ 江藤淳は自己の同一性は批評家であリ、小林秀雄も同様だ。
■ 逆に言えば、俳人でも歌人でもない。芸術家でもない。

批評家
芸術家
俳人
歌人

作家
物書き
歌手
歌うたい

■ こうした用語で、人を分類する。
■ このような世俗的分類に自己・同一性を求めようとするのは、必ずしも間違いではない。否定しない。

選手
・・・

■ など、収入面、名声面で、それが人生だとする人も多い。
■ しかし、・・・
■ まあ、いいか。
■ ・・・
■ 小林秀雄は、
芭蕉は、弟子の木節に「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答へたさうである。・・・純粋な芭蕉の鑑識が光ってゐる様に感じられ、・・・
僕らは西行と実朝をまるで違った歌人の様に考え勝ちだが、実は非常によく似た所のある誌魂なのである。
■ このように、書いている。
■ その芭蕉の鑑識を自分なりに考えだのだろう、けれど、どうか、・・・
■ 芭蕉がどのように鑑賞しようと、奥の細道に見られるような、芭蕉の在り方に、俳諧師的なにおいが感じられて必ずしも、肯定したくない部分がある。

2024年5月19日日曜日

アイデンティティー、とは


A beleza dos Faisões e suas vocalizações na natureza (youtube.com) ポルトガル語、キジの美しさと自然の中での鳴き声


人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するであろうか。(本文)
中原中也、富永太郎らとの交友関係、未発表の書簡や広汎にわたる資料を駆使して、小林秀雄の批評の成立、構成、その精神に迫る。『夏目漱石』『作家は行動する』などで出発した批評家江藤淳の自身への問いは、確固たる地位を築く記念碑的評伝となった。
アイデンティティー  ブログ内「ラベル」検索
小林秀雄 考えるヒント - Google 検索  解説・江藤淳

■ 2024-05-19
■ 今日は気象庁の「今後の雨」を見ると、そこいら散歩には向かない天気のようだ。
■ 先日、
■ この頁で、カフカ「城」が取り上げられていた。
■ 読んだことはない。
■ なので、気に留めていなかったが、昨日、
  • 江藤淳・アメリカと私・城 --- 死と蘇生、および自動車のこと --- 全く大学は「城」であった。つまり、それは、カフカの小説に出て来るの不思議な「城」に似ていた。・・・
■ この章を読んでいると、

なしくずしの自己喪失をまぬがれようとするなら、私は自分の批評家という同一性を固執しなければならない。しかし、私の場合、この同一性は、ひとつには言葉の障壁のために、それ以上に二つの文化の異質性のために、米国の社会で何の機能も果たさないのであるから、固執しようとするかぎり私はこの社会では死んでいるのである。

■ こんなことを書いている。
■ 江藤淳「小林秀雄」が新潮社文学賞受賞を受賞したのは昭和37年・1962年、29歳の頃の話だ。
■ ここで、彼は、同一性、にアイデンティティと振り仮名している。

作・家
小説・家  筆名、ペンネーム
批評・家
評論・家
書・家 
写真・家
画・家
音楽・家
作曲・家 or 作曲・者

詩・人 
俳・人  俳号
歌・人  
茶・人
 
作詞・者
記・者
演奏・者

歌・手  芸名
運転・手

舞・子
踊り・子
・・・
・・・

■ 号、雅号、
■ 道人
■ 日本には、雅号というモノがある。
■ 私は「遊水」という号を用いている。
■ 油絵を描いているときは、別のサインをしていた。
■ 俳句を作るとき、短歌を詠むとき、文章を書く時、だいたい、「遊水」だ。
■ 例えば、小説、文芸作品、論文、政治、社会、思想、に関してその内容ではない。
■ 言葉に関心があるので、その「ことば」に関して、真実性とでもいうか、意味について書くことは多い。
■ 時事評論など、不得意だ。
■ 私は、表現者であって、いわゆる評論家ではない。
■ なので、例えば、小林秀雄、についてならば、・・・
■ 高校卒業後、人に勧められた本がある。
  • 小林秀雄・考えるヒント 
■ 単行本だった。
■ いつかなくなっていたので、というか、引っ越しの際捨てたような気もする。
■ 後日、文庫本で買った。
■ 小林秀雄の本は他に何かあったかどうか、・・・
■ まあ、いい。
■ 自分は何者か、江藤淳は批評家である、と。
■ リービ英雄の場合は、文学者、ということか、ちょっと分かりにくいのは、アイデンティティーズ、と複数形になっていることだ。
■ 例えば、會津八一は秋草道人と称していた。
■ 「道人」という言葉を使う人は他にもたくさんいた。
■ 同一性、帰属性、などとは無関係に、・・・
■ 私の場合は、遊水、だ。

ここも5羽 かわいいわねと 人の声 遊水  2024-05-19 訂正、追加

■ 先日、服部緑地公園で出会った人がカラアカハラの話をしていた。この頁にもリンクしていた。▶ミコアイサ、と、オオマシコ、をちょっと振り返る。 
■ カラアカハラは、この頁でも取り上げていた。▶ アカハラ、クロツグミ・メス、ビンズイ、オオルリ、と、カラアカハラのコト 


■ 2024-05-19
  1. ここも5羽 かわいいですね 人の声  訂正前
  2. ここも5羽 かわいいわねと 人の声  訂正後、女の人だと分かる。
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■ 2024-05-18
■ キビタキは、このあと、少し離れたところで、しばらく、いい声で鳴いていた。


2024-05-18  吹田市・海老池


2024-05-18  吹田市・コガモの池

パン屋?の前、去年もこのあたりだったような
他には、自転車屋の前とかにも巣がある。

2024-05-18  吹田市


2024-05-18  吹田市

明るい場所がいい。これからかな。

2024-05-18  吹田市・南千里駅

2024年5月17日金曜日

言葉は基本的に非常に重要だが、日本国の、アラビア語は?、ムハンマド、と、飯山あかり、の対話はあるか








■ 2024-05-17
■ このブログは7頁ずつ表示するようにしているので、前に書いた頁が、すぐどこかに行ってしまう。
■ 今年、ツバメの雛・5羽の写真を最初に撮ったのはいつだったのか、
■ そろそろ巣立ちかな、近くの他の2ヶ所の巣の方はまだまだだ。
■ この3つの頁の写真、使用したカメラは違うが、記録としては、写真としてのデキを比較することはない。
■ さて、・・・
■ 何かを書き始めようとして、別の何かに邪魔されて、何を書こうとしていたか、忘れることも多い。
■ しかし、元々書こうとしていた何かも、書かねばならぬというようなコトではないので、だいたい、無関係なことが混在して、あとで、何か書いたはずというとき、どこに書いたか、探しまくるというコトになる。
■ 今回も、なんだったか忘れてしまった。
■ そこで、題に取り上げたコト、即ち、何を話すかということの前に、言語能力があり、あなたの話す言葉は、ごく普通に何でも分かると、こちらのことを相手が知ることが、相互理解のためにはごく基本的に重要だと思われる。
■ 要するに、アラビア語を話す相手に、アラビア語で対話できると、知らせることは非常に重要だ。
■ その能力を国として使えるかどうかが問題だろうけれど。

つばめのこ おおきくいつつ くちあけて  遊水。 2024-05-17 写真追加

夢想花 (円広志) (youtube.com) これ知らんかった。


生まれたばかりの赤ちゃんの偉大さについてのパズルを作ってみましょう

■ 2024-05-17 写真追加
■ 今日は、一応、LUMIX G8 + 100-300 mm でうちを出た。
■ 結局、撮った写真はツバメのひな、だけだった。


2024-05-17  吹田市

■ 2024-05-16
■ 今日も鳥見散歩には行かず、久保田万太郎俳句集をぱらぱら読みしていた。
  • 春がすみ團十郎といふ名かな  万太郎
■ 歌舞伎とかそんなものに興味はないけれど、名前の句は、例えば
  • 年賀状、律子と書いてリッシかな  遊水
■ こんなのがある。
■ 最近、俳句からは遠ざかっているけれど、それは写真があるからだ。
■ 今の季節なら
■ ツバメの句など、できなくもない。
  • つばめのこ おおきくいつつ くちあけて  遊水
■ それでどうした、といわれれば、まあ、ただの情景だけれど、
■ 先日、撮ったカイツブリの巣にはあるはずの卵がなかった。
■ マガモの雛は5羽、少し大きくなっていた。
■ 毎年のことだ。
■ ヤマガラの幼鳥は5羽いて、まだ、親から餌にねだっていた。
■ 野鳥の写真や木々で季節の移り変わりなど感じる。